、手箱から亡父《ちち》の写真を取り出して懐中した。
 小春日和《こはるびより》の日曜とて、青山の通りは人出多く、大空は澄み渡り、風は砂を立てぬほどに吹き、人々行楽に忙がしい時、不幸の男よ、自分は夢地を辿《たど》る心地《ここち》で外を歩いた。自分は今もこの時を思いだすと、東京なる都会を悪《にく》む心を起さずにはいられないのである。
 東宮御所の横手まで来ると突然「大河君、大河君」と呼ぶ者がある。見れば斎藤という、これも建設委員の一人。莞爾《にこにこ》しながら近づき、
「どうも相済まん、僕は全然《まるで》遊んでいて。寄附金は大概集まったろうか」
 寄附金といわれて我知らずどきまぎ[#「どきまぎ」に傍点]したが「大略《あらまし》集まった」と僅《わずか》に答えて直ぐ傍《わき》を向いた。
「廻る所があるなら僕廻っても可いよ」
「難有《ありがと》う」と言ったぎり自分が躊躇《もじもじ》しているので斎藤は不審《いぶかし》そうに自分を見ていたが、「イヤ失敬」と言って去って終《しま》った。十歩を隔てて彼は振返って見たに違ない。自分は思わず頸《くび》を縮《すく》めた。
 母に会ったら、何と切出そう。新町に近づくにつれて、これが心配でならぬ。母から反対《あべこべ》に怒鳴つけられたら、どうしようなど思うと、母の剣幕が目先に浮んで来て、足は自《おのず》と立縮《たちすく》む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸《むね》を圧《おし》つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。
「大河とみ」の表札。二階建、格子戸《こうしど》、見たところは小官吏《こやくにん》の住宅《すまい》らしく。女姓名《おんななまえ》だけに金貸でも為《し》そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜《くぐ》った。

 五月十三日[#「五月十三日」に傍点(白丸)]
 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢《ながひばち》の向うに坐っていて、可怕《こわ》い顔して自分を迎えた。鉄瓶《てつびん》には徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んでいる最中。然し思ったより静で、妹《いもと》お光の浮いた笑声と、これに伴う男の太い声は二人か三人。母はじろり自分を見たばかり一言も言わず、大きな声で
「お光、お銚子《ちょうし》が出来たよ」と二階の上口《あがりくち》を向いて呼んだ。「ハイ」とお光は下《おり》て来て自分を見て、
「オヤ兄様」と言ったが笑いもせず、唯だ意外という顔付き、その風《ふう》は赤いものずくめ、どう見ても居酒屋の酌婦としか受取れない。母の可怕い顔と自分の真面目《まじめ》な顔とを見比べていたが、
「それからね母上《おっか》さん、お鮨《すし》を取って下さいって」
「そう、幾価《いくら》ばかり?」
「幾価だか。可い加減で可いでしょう。それから母上さんにもお入《いで》なさいって」
「あア」と母は言って妙な眼つきでお光の顔を見たが、お光はそのまま自分の方は見向もしないで二階へ上って了《し》まった。自分は唯だ坐わったきり、母の何とか言いだすのを待っていた。
「何しに来たの」と母は突慳貪《つっけんどん》に一言《ひとこと》。
「先刻は失礼しました」と自分は出来るだけ気を落着けて左《さ》あらぬ体《てい》に言った。
「いいえどうしまして。色々心配をかけて済なかったね。帰る時お政さんに言って置いたことがあるが聞いておくれだったかね?」と何処《どこ》までも冷やかに、憎々しげに言いながら起上《たちあ》がって「私はお客様《きゃくさん》の用で出て来るが、用があるなら待っていておくれ」と台所口から出て去《い》って了った。
 自分は腕組みして熟《じ》っとしていたが、我母ながらこれ実に悪婆《あくば》であるとつくづく情なく、ああまで済ましているところを見ると、言ったところで、無益《むだ》だと思うと寧《いっ》そのこと公けの沙汰《さた》にして終《しま》おうかとの気も起る。然し現在の母が子の抽斗から盗み出したので、仮令《たとい》公金であれ、子の情として訴たえる理由《わけ》にはどうしてもゆかない。訴たえることは出来ず、母からは取返えすことも出来ないなら、窃《ひそ》かに自分で弁償するより外の手段はない。八千円ばかりの金高から百円を帳面《ちょうづら》で胡魔化《ごまか》すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後《あと》で発覚《ばれ》る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦《ふる》えるようだ。自分が弁償するとしてその金を自分は何処から持て来る?
 思えば思うほど自分はどうして可いか解らなくなって来た。これは如何《いか》なことでも母から取返えす外はと、思い定めていると母は外から帰って来て、無言で火鉢《ひばち》の向《むこう》に坐ったが、
「どうだね、聞いてお
前へ 次へ
全17ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング