》をしていたが、
「自分で勝手に下宿屋を行《や》っていながら、そんなことを言われてみると、全然《まるで》私共が悪いように聞える。可いよ、私が今夜行って来よう。そして三円だけ渡して来る」

 五月十一日[#「五月十一日」に傍点(白丸)]
 今日は朝から雨降り風起りて、湖水のような海もさすがに波音が高い。山は鳴っている。
 今夜はお露も来ない。先刻《さっき》まで自分と飲んでいた若者も帰ってしまった。自分は可《い》い心持に酔うている。酔うてはいるもののどうも孤独の感に堪《た》えない。要するに自分は孤独である。
 人の一生は何の為だろう。自分は哲学者でも宗教家でもないから深い理窟《りくつ》は知らないが、自分の今、今という今感ずるところは唯《た》だ儚《はかな》さだけである。
 どうも人生は儚いものに違いない。理窟は抜にして真実のところは儚いものらしい。
 もしはかないものでないならば、たとい人はどんな境遇に堕《おち》るとも自分が今感ずるような深い深い悲哀《かなしみ》は感じない筈《はず》だ。
 親とか子とか兄弟とか、朋友《ほうゆう》とか社会とか、人の周囲《まわり》には人の心を動かすものが出来ている。まぎらす[#「まぎらす」に傍点]者が出来ている。もしこれ等が皆《み》な消え失《う》せて山上に樹《た》っている一本松のように、ただ一人、無人島の荒磯《あらいそ》に住んでいたらどうだろう。風は急に雨は暗く海は怪しく叫ぶ時、人の生命、この地の上に住む人の一生を楽しいもの、望あるものと感ずることが出来ようか。
 だから人情は人の食物《くいもの》だ。米や肉が人に必要物なる如く親子や男女《なんにょ》や朋友の情は人の心の食物だ。これは比喩《ひゆ》でなく事実である。
 だから土地に肥料を施す如く、人は色々な文句を作ってこれ等の情を肥《つち》かうのだ。
 そうしてみると神様は甘《うま》く人間を作って御座る。ではない人間は甘く猿《さる》から進化している。
 オヤ! 戸をたたく者がある、この雨に。お露だ。可愛いお露だ。
 そうだ。人間は甘く猿から進化している。

 五月十二日[#「五月十二日」に傍点(白丸)]
 心細いことを書いている中《うち》にお露が来たので、昨夜は書き続きの本文《ほんもん》に取りかからなかった。さて――
 もしお政が気の勝ている女ならば、自分がその夜三円持て母を尋ねると言えば、
「質屋から持って来たお金なんか厭《いや》だと被仰《おっしゃ》ったのだから持て行かなくったって可う御座いますよ」と言い放って口惜《くや》し涙を流すところだが、お政にはそれが出来ない。母から厭味《いやみ》や皮肉を言われて泣いたのは唯《た》だ悲くって泣いたので、自分が優しく慰さむれば心も次第に静まり、別に文句は無いのである。
 ところで母は百円盗んで帰った。自分は今これを冷やかに書くが、机の抽斗《ひきだし》を開けてみて百円の紙包が紛失しているのを知った時は「オヤ!」と叫けんだきり容易に二の句が出なかった。
「お前この抽斗を開けや為なかったか」
「否《いいえ》」
「だって先刻《さっき》入れて置いた寄附金の包みが見えないよ」
「まア!」と言って妻は真蒼《まっさお》になった。自分は狼狽《あわて》て二《ふたつ》の抽斗を抽《ぬ》き放って中を一々|験《あら》ためたけれど無いものは無い。
「先刻|母上《おっか》さんが置手紙を書くってお開けになりましたよ!」
「そうだ!」と自分は膝《ひざ》を拍《う》った時、頭から水を浴たよう。崕《がけ》を蹈外《ふみはず》そうとした刹那《せつな》の心持。
 自分は暫らく茫然《ぼうぜん》として机の抽斗を眺《なが》めていたが、我知らず涙が頬《ほお》をつとうて流れる。
「余《あんま》り酷《ひど》すぎる」と一語《ひとこと》僅《わず》かに洩《もら》し得たばかり。妻は涙の泉も涸《かれ》たか唯《た》だ自分の顔を見て血の気のない唇《くちびる》をわなわなと戦《ふる》わしている。
「じゃア母上《おっか》さんが……」と言いかけるのを自分は手を振って打消し、
「黙っておいで、黙っておいで」と自分は四囲《あたり》を見廻して「これから新町まで行って来る」
「だって貴所《あなた》……」
「否《いい》や、母上《おっか》さんに会って取返えして来る。余《あんま》りだ、余《あんま》りだ。親だってこの事だけは黙っておられるものか。然しどうしてそんな浅ましい心を起したのだろう……」
 自分は涙を止めることが出来ない。妻も遂に泣きだした。夫婦途方に暮れて実に泣くばかり。思えば母が三円投出したのも、親子の縁を切るなど突飛なことを怒鳴って帰ったのも皆《み》なその心が見えすく。
「直ぐ行って来る。親を盗賊に為ることは出来ない。お前心配しないで待ておいで、是非取りかえして来るから」と自分は大急ぎで仕度《したく》し
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