酒中日記
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)噂《うわさ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大河|今蔵《いまぞう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)五月三日[#四字傍点(白丸)]
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五月三日[#「五月三日」に傍点(白丸)](明治三十〇年)
「あの男はどうなったかしら」との噂《うわさ》、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去《な》くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。
この大河|今蔵《いまぞう》、恐らく今時分やはり同じように噂せられているかも知れない。「時に大河はどうしたろう」升屋《ますや》の老人口をきる。
「最早《もう》死んだかも知れない」と誰かが気の無い返事を為《す》る。「全くあの男ほど気の毒な人はないよ」と老人は例の哀れっぽい声。
気の毒がって下さる段は難有《ありがた》い。然《しか》し幸か不幸か、大河という男今|以《もっ》て生ている、しかも頗《すこぶ》る達者、この先何十年この世に呼吸《いき》の音《ね》を続けますことやら。憚《はばか》りながら未《ま》だ三十二で御座る。
まさかこの小《ちっ》ぽけな島、馬島《うましま》という島、人口百二十三の一人となって、二十人あるなしの小供を対手《あいて》に、やはり例の教員、然し今度は私塾なり、アイウエオを教えているという事は御存知あるまい。無いのが当然で、かく申す自分すら、自分の身が流れ流れて思いもかけぬこの島でこんな暮《くらし》を為るとは夢にも思わなかったこと。
噂をすれば影とやらで、ひょっくり自分が現われたなら、升屋の老人|喫驚《びっく》りして開《あ》いた口がふさがらぬかも知れない。「いったい君はどうしたというんだ」と漸《やっ》とのことで声を出す。それから話して一時間も経《た》つと又|喫驚《びっくり》、今度は腹の中で。「いったいこの男はどうしたのだろう、五年見ない間《ま》に全然《すっかり》気象まで変って了《しま》った」
驚き給うな源因《げんいん》がある。第一、日記という者書いたことのない自分がこうやって、こまめに筆を走らして、どうでもよい自分のような男の身の上に有ったことや、有ることを、今日からポツポツ書いてみようという気になったのからして、自分は五年前の大河では御座らぬ。
ああ今は気楽である。この島や島人《しまびと》はすっかり自分の気に入って了《しま》った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気《のんき》に過さしてくれるかと思うと、正《まさ》にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
酒を呑んで書くと、少々手がふるえて困る、然し酒を呑まないで書くと心がふるえるかも知れない。「ああ気の弱い男!」何処《どこ》に自分が変っている、やはりこれが自分の本音《ほんね》だろう。
可愛い可愛いお露《つゆ》が遊びに来たから、今日はこれで筆を投げる。
五月四日[#「五月四日」に傍点(白丸)]
自分が升屋の老人から百円受取って机の抽斗《ひきだし》に納《しま》ったのは忘れもせぬ十月二十五日。事の初《はじまり》がこの日で、その後自分はこの日に逢《あ》うごとに頸《くび》を縮めて眼をつぶる。なるべくこの日の事を思い出さないようにしていたが、今では平気なもの。
一件がありありと眼の先に浮んで来る。
あの頃の自分は真面目《まじめ》なもので、酒は飲めても飲まぬように、謹厳正直《きんげんせいちょく》、いやはや四角張《しかくばっ》た男であった。
老人連、全然《すっかり》惚《ほ》れ込んでしまった。一《いつ》にも大河、二にも大河。公立|八雲《やくも》小学校の事は大河でなければ竹箒《たけぼうき》一本買うことも決定《きめ》るわけにゆかぬ次第。校長になってから二年目に升屋の老人、遂に女房の世話まで焼いて、お政を自分の妻にした。子が出来た。お政も子供も病身、健康なは自分ばかり。それでも一家《いっけ》無事に平和に、これぞという面白いこともない代り、又これぞという心配もなく日を送っていた。
ところが日清《にっしん》戦争、連戦連勝、軍隊万歳、軍人でなければ夜も日も明けぬお目出度《めでた》いこととなって、そして自分の母と妹《いもと》とが堕落した。
母と妹《いもと》とは自分達夫婦と同棲《どうせい》するのが窮屈で、赤坂区新町に下宿屋を開業。それも表向《おもてむき》ではなく、例の素人《しろうと》下宿。いやに気位を高くして、家が広いから、それにどうせ遊んでいる身体《からだ》、若いものを世話してやるだけのこと、もっとも性の知れぬお方は御免|被《こうむ》るとの触込《ふれこ》み。
自体拙者は気に入らないので、頻《しき》りと止めてみたが、もと
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