もと強情我慢な母親《おふくろ》、妹《いもと》は我儘者《わがままもの》、母に甘やかされて育てられ、三絃《しゃみ》まで仕込まれて自堕落者に首尾よく成りおおせた女。お前たちの厄介にさえならなければ可《よ》かろうとの挨拶《あいさつ》で、頭から自分の注意は取あげない。
これぞという間違もなく半年経ち、日清戦争となって、兵隊が下宿する。初は一人の下士。これが導火線、類を以て集り、終《つい》には酒、歌、軍歌、日本帝国万々歳! そして母と妹《いもと》との堕落。「国家の干城《かんじょう》たる軍人」が悪いのか、母と妹《いもと》とが悪いのか、今更いうべき問題でもないが、ただ一の動かすべからざる事実あり曰《いわ》く、娘を持ちし親々は、それが華族でも、富豪《ふうごう》でも、官吏でも、商人でも、皆《み》な悉《ことごと》く軍人を聟《むこ》に持ちたいという熱望を持ていたのである。
娘は娘で軍人を情夫《いろ》に持つことは、寧《むし》ろ誇るべきことである、とまで思っていたらしい。
軍人は軍人で、殊《こと》に下士以下は人の娘は勿論《もちろん》、後家《ごけ》は勿論、或《あるい》は人の妻をすら翫弄《がんろう》して、それが当然の権利であり、国民の義務であるとまで済ましていたらしい。
三円借せ、五円借せ、母はそろそろ自分を攻め初めた。自分は出来るだけその望に応じて、苦しい中を何とか工夫して出してやった。
月給十五円。それで親子三人が食ってゆくのである。なんで余裕があろう。小学校の教員はすべからく焼塩か何にかで三度のめし[#「めし」に傍点]を食い、以て教場に於ては国家の干城たる軍人を崇拝すべく七歳より十三四歳までの児童に教訓せよと時代は命令しているのである。
唯々《いい》として自分はこの命令を奉じていた。
然し母と妹《いもと》との節操を軍人閣下に献上し、更らに又、この十五円の中から五円三円と割《さ》いて、母と妹《いもと》とが淫酒の料に捧《ささ》げなければならぬかを思い、さすがお人好の自分も頗《すこぶ》る当惑したのである。
酒が醒《さ》めかけて来た! 今日はここで止《や》める。
五月六日[#「五月六日」に傍点(白丸)]
昨日《きのう》は若い者が三四人押かけて来て、夜の十二時過ぎまで飲み、だみ声を張上げて歌ったので疲れて了《しま》い、何時《いつ》寝たのか知らぬ間に夜が明けて今日。それで昨日《きのう》の日記がお休み。
さても気楽な教員。酒を飲うが歌おうが、お露《つゆ》を可愛《かあい》がって抱いて寝ようが、それで先生の資格なしとやかましく言う者はこの島に一人もない。
特別に自分を尊敬も為《し》ない代りに、魚《うお》あれば魚、野菜あれば野菜、誰が持て来たとも知れず台所に投《ほう》りこんである。一升|徳利《どくり》をぶらさげて先生、憚《はばか》りながら地酒では御座らぬ、お露の酌で飲んでみさっせと縁先へ置いて去《い》く老人もある。
ああ気楽だ、自由だ。母もいらぬ、妹《いもと》もいらぬ、妻子《つまこ》もいらぬ。慾もなければ得もない。それでいてお露が無暗《むやみ》に可愛のは不思議じゃないか。
何が不思議。可愛いから可愛いので、お露とならば何時でも死ぬる。
十日前のこと、自分は縁先に出て月を眺《なが》め、朧《おぼ》ろに霞《かす》んで湖水のような海を見おろしながら、お露の酌で飲んでいると、ふと死んだ妻子《つまこ》のこと、東京の母や妹《いもと》のことを思いだし、又この身の流転を思うて、我知らず涙を落すと、お露は見ていたが、その鈴のような眼に涙を一ぱい含くませた。その以前自分はお露に涙を見せたことなく、お露もまた自分に涙を見せたことはないのである。さても可愛いこの娘、この大河なる団栗眼《どんぐりまなこ》の猿のような顔《つら》をしている男にも何処《どこ》か異《おつ》なところが有るかして、朝夕慕い寄り、乙女《おとめ》心の限りを尽して親切にしてくれる不憫《ふびん》さ。
自然生《じねんじょ》の三吉が文句じゃないが、今となりては、外に望は何もない、光栄ある歴史もなければ国家の干城たる軍人も居ないこの島。この島に生れてこの島に死し、死してはあの、そら今風が鳴っている山陰の静かな墓場に眠る人々の仲間入りして、この島の土となりたいばかり。
お露を妻《かか》に持って島の者にならっせ、お前さん一人、遊んでいても島の者が一生養なって上げまさ、と六兵衛が言ってくれた時、嬉《うれ》しいやら情けないやらで泣きたかった。
そして見ると、自分の周囲《まわり》には何処かに悲惨《ひさん》の影が取巻ていて、人の憐愍《れんみん》を自然に惹《ひ》くのかも知れない。自分の性質には何処かに人なつこい[#「なつこい」に傍点]ところがあって、自《おのず》と人の親愛を受けるのかもしれない。
何《いず》れにせよ、
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