ゃつ》声は全たく美《い》いよ。

 五月十日[#「五月十日」に傍点(白丸)]
 外から帰たのが三時頃であった。妻《さい》は突伏して泣いている。
「どうしたのだ、どうしたの?」と自分は驚ろいて訊《き》いたが、お政のことゆえ、泣くばかりで容易に言い得ない。泣くのはこの女の持前で、少しの事にも涙をこぼす。然し今度のは余程のことが有ったとみえて、自分が聞けば聞くほど益々《ますます》泣入ばかり。こうなると自分は狼狽《うろた》えざるを得ない。水を持て来てやりなどすると漸《ようや》くのことで詳わしく事条《じじょう》が解った。
 お政の苦心は十分母の満足を得なかったのである。折角の帯も三円にしかならず、仕方なしにお政は自分の出て行った後《あと》でこの三円を母に渡すと、母は大立腹。二人の問答は次のようであった。
「五円と言って来たのだよ」
「でも只今これだけしか無いのですから……」
「だって先刻《さっき》用意してあると言ったじゃないか」
「ですから三円だけ漸々《ようよう》作《こし》らえましたから……」
「そうお。漸々作らえておくれだったのか。お気の毒でしたね、色々御心配をかけて。必定《きっと》七屋《ななつや》からでも持て来たお金でしょう。そんな思《おもい》のとッ着いた金なんか借りたくないよ。何だね人面白《ひとおもしろ》くも無い。可いよ今蔵が帰って来るの待っているから。今蔵に言うから」
「イイえ主人《うち》では知らないのですから……」
「オヤ今蔵は知らないの? 驚いた、それじゃお前さんが内証でお貸なの。嘘《うそ》を吐《つ》きなさんな、嘘を。今蔵の奴|必定《きっと》三円位で追返せとか何とか言ったのだろう。だから自分は私を避《よ》けて出て行ったのだろう。可いよ、待ってるから。晩までだって待っていてやるから」
「宅《うち》のは全く、全く知らないので……」と妻は泣いて口がきけない。
「泣かないでも可いじゃアないか。お前さんは亭主の言いつけ通り為たのだから可いじゃアないか。フン何ぞと言うと直ぐ泣くのだ。どうせ私は鬼婆《おにばばア》だから私が何か言うと可怕《こわ》いだろうよ」
 何と言われても一方は泣くばかり、母は一人で並べている。
「だから出来なきゃ出来ないと言って寄こせば可いんだ。新町から青山くんだりまで三円ばかしのお金を取りに来るような暇はない身体ですよ。意気地がないから親一人|妹《いもと》一人養うことも出来ずさ、下宿屋家業までさして置いて忠孝の道を児童《こども》に教えるなんて、随分変った先生様もあるものだね。然しお政さんなんぞは幸福《しあわせ》さ、いくら親に不孝な男でも女房だけは可愛がるからね。お光《みつ》などのように兵隊の気嫌まで取て漸々御飯を戴《いただ》いていく女もあるから、お前さんなんぞ決して不足に思っちゃなりませんよ」
 皮肉も言い尽して、暫《しば》らく烟草《たばこ》を吹かしながら坐っていたが、時計を見上げて、
「どうせ避《よ》けた位だからちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]帰って来ないだろう。帰りましょう、私も多忙《いそが》しい身体だからね。お客様に御飯を上げる仕度《したく》も為なければならんし」と急に起上《たちあ》がって
「紙と筆を借りるよ。置手紙を書くから」と机の傍《そば》に行った。
 この時助が劇《はげ》しく泣きだしたので、妻は抱いて庭に下りて生垣《いけがき》の外を、自分も半分泣きながら、ぶらぶら歩るいて児供《こども》を寝かしつけようとしていた。暫《しばら》くすると急に母は大声で
「お政さん! お政さん!」と呼んだ。妻は座敷に上がると母は眼に角を立て睨《にら》むようにして
「お前さんまで逃げないでも可いよ。人を馬鹿にしてらア。手紙なんぞ書かないから、帰ったらそう言っておくれ。この三円も不用《いらな》いよ」と投げだして「最早《もう》私も決して来ないし、今蔵も来ないが可い、親とも思うな、子とも思わんからと言っておくれ!」
 非常な剣幕で母は立ち去り、妻はそのまま泣伏したのであった。
 自分は一々|聴《き》き終わって、今の自分なら、
「宜《よろ》しい! 不用《いらな》けゃ三円も上げんばかりだ。泣くな、泣くな、可いじゃないか母上《おっか》さんの方から母《おや》でもない子でも無いというのなら、致《いたし》かたもないさ。無理も大概にして貰《もら》わんとな」
 然《しか》しあの時分はそうでなかった。不孝の子であるように言われてみると甚《ひ》どくそれが気にかかる。気にかかるというには種々の意味が含んでいるので、世間|体《てい》もあるし、教員という第一の資格も欠けているようだし、即ち何となく心に安んじないのである。それに三円ということは自分も知らなかったのだ、その点は此方《こっち》が悪いような気もするので、
「困ったものだ」と腕組して暫く嘆息《ためいき
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