くれだったかね?」と言って長い烟管《きせる》を取上げた。
「何をですか」と自分は母の顔を見ながら言った。
「まア可いサ聞かなかったのなら。然しお前の用というのは何だね?」
 自分は懐中《ふところ》から三円出して火鉢の横に置き、
「これは二円不足していますが、折角お政が作《こし》らえて置いたのですから、取って下さい、そう為《し》ませんと……」
「最早《もう》不用《いら》ないよ。だから私も二度とお前達の厄介にはなるまいし。お前達も私のようなものは親と思わないが可い。その方がお前達のお徳じゃアないか」
「母上《おっか》さん。貴女《あなた》は何故《なぜ》そんなことを急に被仰《おっしゃ》るのです」と自分は思わず涙を呑《の》んだ。
「急に言ったのが悪けりゃ謝《あや》まります。そうだったね、一年前位に言ったらお前達も幸福《しあわせ》だったのに」
 何という皮肉の言葉ぞ、今の自分ならば決然《きっぱり》と、
「そうですか、宜《よろ》しゅう御座います。それじゃ御言葉に従がいまして親とも思いますまい、子とも思って下さいますな。子とお思いになると飛《とん》だお恨みを受けるような事も起るだろうと思いますから。就《つ》いては今日|私《わたくし》の机の抽斗に百円入れて置きましたそれが、貴女のお帰りになると同時に紛失したので御座いますが、如何《いか》がでしょう、もしか反古《ほぐ》と間違ってお袂《たもと》へでもお入《いれ》になりませんでしたろうか、一応お聞申します」と腹から出た声を使って、グッと急所へ一本。
「何だと親を捕えて泥棒呼わりは聞き捨てになりませんぞ」と来るところを取って押え、片頬《かたほお》に笑味《えみ》を見せて、
「これは異なこと! 親子の縁は切れてる筈《はず》でしょう。イヤお持帰りになりませんならそれで可う御座います、右の次第を届け出《いず》るばかりですから」と大きく出れば、いかな母でも半分落城するところだけれど、あの時の自分に何でこんな芝居が打てよう。
 悪々《にくにく》しい皮肉を聞かされて、グッと行きづまって了い、手を拱《く》んだまま暫時《しばし》は頭も得《え》あげず、涙をほろほろこぼしていたが、
「母上《おっか》さん、それは余《あんま》りで御座います」とようように一言、母は何所《どこ》までも上手《うわて》、
「何が余《あんまり》だね、それは此方《こっち》の文句だよ。チョッ泣虫が揃《そろ》ってら。面白くもない!」
 自分は形無し。又も文句に塞《つま》ったが、気を引きたてて父の写真を母の前に置きながら
「父上《おとう》さんをお伴《つ》れ申してのお願いで御座います。母上さん、何卒《どうか》……お返しを願います、それでないと私が……」と漸《やっ》との思で言いだした。母は直ぐ血相変て、
「オヤそれは何の真似《まね》だえ。お可笑《かし》なことをお為《し》だねえ。父上《おとう》さんの写真が何だというの?」
「どうかそう被仰《おっしゃ》らずに何卒《どうか》お返しを。今日お持返えりの物を……」
「先刻《さっき》からお前|可笑《おかし》なことを言うね、私お前に何を借りたえ?」
「何も申しませんから、何卒そう被仰らずにお返しを願います、それでないと私の立つ瀬がないのですから……」と言わせも果てず母は火鉢を横に膝《ひざ》を進めて、
「怪《け》しからんことを言うよ、それでは私が今日お前の所から何か持ってでも帰ったと言うのだね、聞き捨てになりませんぞ」と声を高めて乗掛《のしかか》る。
「ま、ま、そう大きな声で……」と自分はまごまご。
「大きな声がどうしたの、いくらでも大きな声を出すよ……さア今《も》一度言って御覧ん。事とすべ[#「すべ」に傍点]に依《よ》ればお光も呼んで立合わすよ」という剣幕。この時二階の笑声もぴたり止んで、下を覗《うか》がい聞耳をたてている様子。自分は狼狽《うろた》えて言葉が出ない。もじもじしていると台所口で「お待遠さま」という声がした。母は、
「お光、お光お鮨が来たよ」と呼んだ。お光は下りて来る。格子《こうし》が開いたと思うと「今日は」と入って来たのが一人の軍曹。自分をちょっと尻目《しりめ》にかけ、
「御馳走様《ごちそうさま》」とお光が運ぶ鮨の大皿を見ながら、ひょろついて尻餅《しりもち》をついて、長火鉢の横にぶっ坐った。
「おやまあ可いお色ですこと」と母は今自分を睨《にら》みつけていた眼に媚《こび》を浮べて「何処で」
「ハッハッ……それは軍事上の秘密に属します」と軍曹酒気を吐いて「お茶を一ぱい頂戴《ちょうだい》」
「今入れているじゃありませんか、性急《せわし》ない児《こ》だ」と母は湯呑《ゆのみ》に充満《いっぱい》注《つ》いでやって自分の居ることは、最早《もう》忘れたかのよう。二階から大声で、
「大塚、大塚!」
「貴所《あなた》下りてお出《い》でな
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