帰ってよく気を落ち着けて考えるんだなア。』
『何言ってるの。』
『まア出直した方がいいねエ、どうせ死ぬなら月でもいい晩の方がまだしゃれてらア。』
『いやな、』と娘は言って座敷の方へどたばたと逃げ出してしまった。
『出直した、出直した。その方がいい、あばよ、』と言って主人《あるじ》はよろめきながら出て来たが、火鉢の横にころりと寝たかと思うとすぐ大いびきをかいている。
『ほんとにこんなとこア早く越してしまいたいねえ、薄気味の悪い。しまいにはろくなことはないよ、ねえお菊。』母親《おふくろ》はやはり針仕事を始めながら、それも朝が早いからもうそろそろ眠そうな目つきでいう。
『そうねえ。』娘はさほどにも思わぬよう。
『この月になってからでも今朝《けさ》のが三人目だよ、よくよくこの踏切はけちがついていると見える。』
 娘は黙って相手にならない。二人は無言で仕事をしていたが、母の手は折り折りやんで、その度《たび》ごとにこくりこくりと居眠りをしている。娘はこのさまを見て見ないふりをしていたが、しばらくしてソッと起き上がって土間を下《お》りた。表の戸は二寸ばかり細目に開《あ》けてあるのを、音のせぬように開けて、身体《からだ》を半分出して四辺《あたり》を見まわすようであったが、ツと外に出た。軒下に立っているのが昨夜《ゆうべ》お梅から『お菊さんによろしく』と冷やかされた男。
『オヤ磯《いそ》さん? なぜそんなところに立ってるの、お入《はい》りな、』と娘は小声でいう。
『入《はい》りそこねて変だから今夜はよそうよ、さっき親父《とっ》さんが出直せッて言ったから、』とにやにや笑いながら言う。
『アラお前さんだったの? 何だか妙なことを言ってたと思ったよ。まアお入りな、かまわないから。』
『出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、』と行きかける、
『人をばかばかしい、』と娘はまだ何か言いかけると内から母親《おふくろ》があくび声で、
『お菊もう寝るから外をお閉《し》め。』
『何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、』と嘘《うそ》を言ってだまかす。
『オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、』と険貪《けんどん》に言う。
『星が見えるよ、』と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。
『早くお入りよ、』と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった
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