し行って来ても。』娘は針を置いた。
主人《あるじ》は最後の酒杯《さかずき》をじっと見ていたが、その目はとろんこになって、身体《からだ》がふらふらしている。
『やっぱり四合かな。』
三人とも暫時無言。外面《そと》はしんとして雨の音さえよくは聞こえぬ。
『お前さん薬が利《き》いたじゃアないか。』
『ハハハハハ』主人《あるじ》は快く笑って『しかしおいらアいくら逆上《のぼ》せても鉄道往生はご免だ。ドラ床《とこ》の中《うち》で朝まで安楽成仏《あんらくじょうぶつ》としようかな。今朝《けさ》の野郎なんかまだ浮かばれねエでレールの上を迷ってるだろうよ。』
『チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。
『ばか言ってらア、死ぬる奴《やつ》は勝手に死ぬるんだ、こっちの為《せえ》じゃアねエ。踏切の八百屋で顔が売れてるのを引っ越してどこへ行くんだイ。死にたい奴はこの踏切で遠慮なしにやってくれるがいいや、方々へ触れまわしてやらア、こっちの商売道具だ。』
あくまで太い事をいって、立ち上がって便所へ行きながら、『その代わり便所の窓から念仏の一つも唱えてやらア。』
『あれだもの』女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。主人《あるじ》は便所の窓を明けたが、外面《そと》は雨でも月があるから薄光《うすあかり》でそこらが朧《おぼろ》に見える。窓の下はすぐ鉄道線路である。この時|傘《かさ》をさしたる一人《ひとり》の男、線路のそばに立っていたのが主人《あるじ》の窓をあけたので、ソッと避《よ》けて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、
『何を言っても命あっての物種《ものだね》だ、』と大きな声で独言《ひとりごと》を初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。』
この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢《けはい》がしたが、主人《あるじ》はそれには気が付かない。
『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情人《いろ》が不実《ふじつ》なら別な情人《いろ》を目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』
娘が来て、
『何言ってるの?』気味わるそうに言う。
『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死神《しにがみ》に取っ付かれそうな晩だから、早く
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