おろか、何一ツしでかすものかと、今度はけんか腰になッて、人を後ろへ向かそうッて、たれが向くか、ざまを見ろと今から思えばおかしいがほんとにそう独語《ひとりごと》を言いながら画き続けた。
 音が近づくにつけて大きくなる、下草や小藪《こやぶ》を踏み分ける音がもうすぐ後ろで聞こえる、僕の身体《からだ》は冷水《ひやみず》を浴びたようになって、すくんで来る、それで腋《わき》の下からは汗がだらだら流れる、何のことはない一種の拷問サ。
 僕はただ夢中になって画いていたが目と手は器械的に動くのみで全身の注意は後ろに集まっていた。すると何者かが確かに僕の背なかにくっつくようにして足を止めた。そして耳のそばで呼吸の気合《けはい》がする。天下|何人《なんびと》か縮み上がらざらんやだ。君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと――失敬失敬――僕はもう呼吸が塞《ふさ》がりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、旦那《だんな》はうめえなアと耳元で大声に叫んだ奴《やつ》がある。
 びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺《おやじ》が腰を屈《かが》めて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。渠《きゃつ》一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生じゃアないまだ生徒なんだというとすこぶる感心したような顔つきで絵を見ていた。』
 ここまで話して来て江藤は急に口をつぐんで、対手《あいて》の顔をじっと見ていたが、思い出したように、
『そうだッけ、あの老爺《おやじ》さんを写生するとよかッた、』と言って膝《ひざ》を拍《う》った。この近在の百姓が御料地の森へ入《はい》って、枯れ枝を集めるのは、それは多分禁制であろうが、彼らは大びらでやっているのである。その事は無論時田も江藤も知っていたので、江藤もよく考えたら森の奥のガサガサする音は必ずそれと気の付くはずなんだ。
『それはそうとして君、それから僕は内心すこぶる慙《はず》かしく思ったから、今度は大いに熱心になって画《か》きだしたが、ほぼできたから巻煙草《まきたばこ》を出して吸い初めたら、それまで老爺《おやじ》さん黙って見ていたが、何と思ったか、まじめな顔で、その絵をくれないかと言いだした。その言い草がおもしろいじゃア
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