《げんおじ》がこと忘れず。燈下に坐りて雨の音きく夜《よ》など、思いはしばしばこのあわれなる翁《おきな》が上に飛びぬ。思えらく、源叔父今はいかん、波の音ききつつ古き春の夜のこと思いて独り炉《ろ》のかたわらに丸き目ふさぎてやあらん、あるいは幸助がことのみ思いつづけてやおらんと。されど教師は知らざりき、かく想いやりし幾年《いくとせ》の後の冬の夜は翁の墓に霙《みぞれ》降《ふ》りつつありしを。
年若き教師の、詩読む心にて記憶のページ翻《ひるが》えしつつある間に、翁が上にはさらに悲しきこと起こりつ、すでにこの世の人ならざりしなり。かくて教師の詩はその最後の一|節《せつ》を欠《か》きたり。
中
佐伯《さいき》の子弟が語学の師を桂港《かつらみなと》の波止場に送りし年も暮れて翌年一月の末、ある日源叔父は所用ありて昼前より城下に出でたり。
大空曇りて雪降らんとす。雪はこの地に稀《まれ》なり、その日の寒さ推《お》して知らる。山村水廓《さんそんすいかく》の民《たみ》、河より海より小舟|泛《う》かべて城下に用を便ずるが佐伯近在の習慣《ならい》なれば番匠川《ばんじょうがわ》の河岸《かし》にはい
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