つも渡船《おろし》集《つど》いて乗るもの下りるもの、浦人は歌い山人はののしり、いと賑々《にぎにぎ》しけれど今日は淋びしく、河面《かわづら》には漣《さざなみ》たち灰色の雲の影落ちたり。大通《おおどおり》いずれもさび、軒端《のきば》暗く、往来《ゆきき》絶え、石多き横町《よこまち》の道は氷《こお》れり。城山の麓《ふもと》にて撞《つ》く鐘雲に響きて、屋根瓦の苔《こけ》白きこの町の終《はて》より終《はて》へともの哀しげなる音の漂う様は魚《うお》住まぬ湖水《みずうみ》の真中《ただなか》に石一個投げ入れたるごとし。
祭の日などには舞台据えらるべき広辻《ひろつじ》あり、貧しき家の児ら血色《ちいろ》なき顔を曝《さら》して戯《たわむ》れす、懐手《ふところで》して立てるもあり。ここに来かかりし乞食《こじき》あり。小供の一人、「紀州《きしゅう》紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、蓬《よもぎ》なす頭髪は頸《くび》を被《おお》い、顔の長きが上に頬肉こけたれば頷《おとがい》の骨|尖《とが》れり。眼《まなこ》の光|濁《にご》り瞳《ひとみ》動くこと遅くいずこともなくみつむるまなざし鈍し。纒《まと》いしは袷《あわせ》一枚、裾は短かく襤褸《ぼろ》下がり濡れしままわずかに脛《すね》を隠せり。腋《わき》よりは蟋蟀《きりぎりす》の足めきたる肱《ひじ》現われつ、わなわなと戦慄《ふる》いつつゆけり。この時またかなたより来かかりしは源叔父なり。二人は辻の真中にて出遇《であ》いぬ。源叔父はその丸き目《め》※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて乞食を見たり。
「紀州」と呼びかけし翁の声は低けれども太《ふと》し。
若き乞食はその鈍き目を顔とともにあげて、石なんどを見るように源叔父が眼《まなこ》を見たり。二人はしばし目と目見あわして立ちぬ。
源叔父は袂《たもと》をさぐりて竹の皮包取りだし握飯一つ撮《つま》みて紀州の前に突きだせば、乞食は懐《ふところ》より椀《わん》をだしてこれを受けぬ。与えしものも言葉なく受けしものも言葉なく、互いに嬉《う》れしとも憐れとも思わぬようなり、紀州はそのまま行き過ぎて後振向きもせず、源叔父はその後影《うしろかげ》角《かど》をめぐりて見えずなるまで目送《みおく》りつ、大空仰げば降るともなしに降りくるは雪の二片三片《ふたひらみひら》なり、今一度乞食のゆきし方《かた》を見て太き嘆息《ためいき》せり。小供らは笑を忍びて肱《ひじ》つつきあえど翁は知らず。
源叔父家に帰りしは夕暮なりし。彼が家の窓は道に向かえど開かれしことなく、さなきだに闇《くら》きを燈つけず、炉《ろ》の前に坐り指太き両手を顔に当て、首を垂れて嘆息つきたり。炉には枯枝一|掴《つか》みくべあり。細き枝に蝋燭《ろうそく》の焔《ほのお》ほどの火燃え移りてかわるがわる消えつ燃えつす。燃ゆる時は一間《ひとま》のうちしばらく明《あか》し。翁の影太く壁に映りて動き、煤《すす》けし壁に浮かびいずるは錦絵《にしきえ》なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時|粘《は》りつけしまま十年《ととせ》余の月日|経《た》ち今は薄墨《うすずみ》塗りしようなり、今宵《こよい》は風なく波音聞こえず。家を繞《めぐ》りてさらさらと私語《ささや》くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは霙《みぞれ》の音なり。源叔父はしばしこのさびしき音《ね》を聞入りしが、太息《ためいき》して家内《やうち》を見まわしぬ。
豆|洋燈《らんぷ》つけて戸外《そと》に出《いず》れば寒さ骨に沁《し》むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら粟《あわ》だつを覚えき。山黒く海暗し。火影《ほかげ》及ぶかぎりは雪片《せっぺん》きらめきて降《お》つるが見ゆ。地は堅く氷れり。この時若き男二人もの語りつつ城下の方《かた》より来しが、燈持ちて門《かど》に立てる翁《おきな》を見て、源叔父よ今宵の寒さはいかにという。翁は、さなりとのみ答えて目は城下の方に向かえり。
やや行き過ぎて若者の一人、いつもながら源叔父の今宵の様はいかに、若き女あの顔を見なばそのまま気絶やせんと囁《ささや》けば相手は、明朝《あすあさ》あの松が枝に翁の足のさがれるを見出《みいだ》さんもしれずという、二人は身の毛のよだつを覚えて振向けば翁が門にはもはや燈火《ともしび》見えざりき。
夜は更《ふ》けたり。雪は霙と変わり霙は雪となり降りつ止みつす。灘山《なだやま》の端《は》を月はなれて雲の海に光を包めば、古城市はさながら乾ける墓原《はかはら》のごとし。山々の麓《ふもと》には村あり、村々の奥には墓あり、墓はこの時|覚《さ》め、人はこの時眠り、夢の世界にて故人|相《あい》まみえ泣きつ笑いつす。影のごとき人今しも広辻を横ぎりて小橋の上をゆけり。
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