源おじ
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)都《みやこ》より

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半里|隔《へだ》てし

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(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて
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     上

 都《みやこ》より一人の年若き教師下りきたりて佐伯《さいき》の子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。夏の初め、彼は城下に住むことを厭《いと》いて、半里|隔《へだ》てし、桂《かつら》と呼ぶ港の岸に移りつ、ここより校舎に通いたり。かくて海辺《かいへん》にとどまること一月《ひとつき》、一月の間に言葉かわすほどの人|識《し》りしは片手にて数うるにも足らず。その重《おも》なる一人は宿の主人《あるじ》なり。ある夕《ゆうべ》、雨降り風|起《た》ちて磯《いそ》打つ波音もやや荒きに、独《ひと》りを好みて言葉すくなき教師もさすがにもの淋《さび》しく、二階なる一室《ひとま》を下りて主人夫婦が足投げだして涼《すず》みいし縁先に来たりぬ。夫婦は燈《ともしび》つけんともせず薄暗き中に団扇《うちわ》もて蚊《か》やりつつ語《かた》れり、教師を見て、珍らしやと坐《ざ》を譲《ゆず》りつ。夕闇《ゆうやみ》の風、軽《か》ろく雨を吹けば一滴二滴、面《おもて》を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。
 その後《のち》教師都に帰りてより幾年《いくとせ》の月日|経《た》ち、ある冬の夜、夜《よ》更《ふ》けて一時を過ぎしに独《ひと》り小机に向かい手紙|認《したた》めぬ。そは故郷《ふるさと》なる旧友の許《もと》へと書き送るなり。そのもの案じがおなる蒼《あお》き色、この夜は頬《ほお》のあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまなざし、霧に包まれしある物を定《さだ》かに視《み》んと願うがごとし。
 霧のうちには一人の翁《おきな》立ちたり。
 教師は筆おきて読みかえしぬ。読みかえして目を閉《と》じたり。眼《まなこ》、外に閉じ内に開けば現われしはまた翁なり。手紙のうちに曰《いわ》く「宿の主人は事もなげにこの翁が上を語りぬ。げに珍しからぬ人の身の上のみ、かかる翁を求めんには山の蔭《かげ》、水の辺《ほとり》、国々には沢《さわ》なるべし。されどわれいかでこの翁を忘れえんや。余にはこの翁ただ何者をか秘めいて誰《たれ》一人開くこと叶《かな》わぬ箱のごとき思いす。こは余《よ》がいつもの怪しき意《こころ》の作用《はたらき》なるべきか。さもあらばあれ、われこの翁を懐《おも》う時は遠き笛の音《ね》ききて故郷《ふるさと》恋うる旅人の情《こころ》、動きつ、または想《そう》高き詩の一節読み了《お》わりて限りなき大空を仰《あお》ぐがごとき心地す」と。
 されど教師は翁が上を委《くわ》しく知れるにあらず。宿の主人《あるじ》より聞きえしはそのあらましのみ。主人は何ゆえにこの翁の事をかくも聞きたださるるか、教師が心《こころ》解《げ》しかねたれど問わるるままに語れり。
「この港は佐伯町《さいきまち》にふさわしかるべし。見たまうごとく家という家いくばくありや、人数《ひとかず》は二十にも足らざるべく、淋《さみ》しさはいつも今宵《こよい》のごとし。されど源叔父《げんおじ》が家一軒ただこの磯に立ちしその以前《かみ》の寂しさを想いたまえ。彼が家の横なる松、今は幅広き道路《みち》のかたわらに立ちて夏は涼しき蔭を旅人に借せど十余年の昔は沖より波寄せておりおりその根方《ねかた》を洗いぬ。城下より来たりて源叔父の舟頼まんものは海に突出《つきいで》し巌《いわ》に腰を掛けしことしばしばなり、今は火薬の力もて危《あや》うき崖も裂かれたれど。
「否《いな》、彼とてもいかで初めより独《ひと》り暮さんや。
「妻は美しかりし。名を百合《ゆり》と呼び、大入島《おおにゅうじま》の生まれなり。人の噂をなかば偽りとみるも、この事のみは信《まこと》なりと源叔父がある夜酒に呑まれて語りしを聞けば、彼の年二十八九のころ、春の夜《よ》更《ふ》けて妙見《みょうけん》の燈《ともしび》も消えし時、ほとほとと戸たたく者あり。源起きいで誰れぞと問うに、島まで渡したまえというは女の声なり。傾《かたぶ》きし月の光にすかし見ればかねて見知りし大入島の百合《ゆり》という小娘にぞありける。
「そのころ渡船《おろし》を業《ぎょう》となすもの多きうちにも、源が名は浦々《うらうら》にまで聞こえし。そは心たしかに侠気《おとこぎ》ある若者なりしがゆえのみならず、べつに深きゆえあり、げに君にも聞かしたきはそのころの源が声にぞありける。人々は彼が櫓《ろ》こぎつ
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