つ歌うを聴かんとて撰《えら》びて彼が舟に乗りたり。されど言葉すくなきは今も昔も変わらず。
「島の小女《おとめ》は心ありてかく晩《おそ》くも源が舟頼みしか、そは高きより見下ろしたまいし妙見様ならでは知る者なき秘密なるべし。舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ額《ひたい》に深き二条《ふたすじ》の皺《しわ》寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。
「源が歌う声|冴《さ》えまさりつ。かくて若き夫婦の幸《たの》しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子《ひとりご》の幸助《こうすけ》七歳《ななつ》の時、妻ゆりは二度目の産重くしてついにみまかりぬ。城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人《あきうど》に仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛《かあい》き妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも稀《まれ》に、櫓《ろ》こぐにも酒の勢いならでは歌わず、醍醐《だいご》の入江を夕月の光|砕《くだ》きつつ朗《ほが》らかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず、妻失いしことは元気よかりし彼が心をなかば砕き去りたり。雨のそぼ降る日など、淋《さみ》しき家に幸助一人をのこしおくは不憫《ふびん》なりとて、客とともに舟に乗せゆけば、人々哀れがりぬ。されば小供《こども》への土産《みやげ》にと城下にて買いし菓子の袋開きてこの孤児《みなしご》に分つ母親もすくなからざりし。父は見知らぬ風にて礼もいわぬが常なり、これも悲しさのあまりなるべしと心にとむる者なし。
「かくて二年《ふたとせ》過ぎぬ。この港の工事なかばなりしころ吾《われ》ら夫婦、島よりここに移りてこの家を建て今の業をはじめぬ。山の端《は》削《けず》りて道路《みち》開かれ、源叔父が家の前には今の車道《くるまみち》でき、朝夕二度に汽船の笛鳴りつ、昔は網だに干さぬ荒磯《あらいそ》はたちまち今の様《さま》と変わりぬ。されど源叔父が渡船《おろし》の業は昔のままなり。浦人《うらびと》島人《しまびと》乗せて城下に往来《ゆきき》すること、前に変わらず、港開けて車道でき人通り繁《しげ》くなりて昔に比ぶればここも浮世の仲間入りせしを彼はうれしともはた悲しとも思わぬ様なりし。
「かくてまた三年《みとせ》過ぎぬ。幸助十二歳の時、子供らと海に遊び、誤りて溺《おぼ》れしを、見てありし子供ら、畏《おそ》れ逃げてこの事を人に告げざりき。夕暮になりて幸助の帰りこぬに心づき、驚きて吾らもともに捜せし時はいうまでもなく事遅れて、哀れの骸《かばね》は不思議にも源叔父が舟底に沈みいたり。
「彼はもはやけっしてうたわざりき、親しき人々にすら言葉かわすことを避くるようになりぬ。ものいわず、歌わず、笑わずして年月を送るうちにはいかなる人も世より忘れらるるものとみえたり。源叔父の舟こぐことは昔に変わらねど、浦人らは源叔父の舟に乗りながら源叔父の世にあることを忘れしようになりぬ。かく語る我身すらおりおり源叔父がかの丸き眼をなかば閉じ櫓《ろ》担《にな》いて帰りくるを見る時、源叔父はまだ生きてあるよなど思うことあり。彼はいかなる人ぞと問いたまいしは君が初めなり。
「さなり、呼びて酒|呑《の》ませなばついには歌いもすべし。されどその歌の意|解《げ》しがたし。否《いな》、彼はつぶやかず、繰言《くりごと》ならべず、ただおりおり太き嘆息《ためいき》するのみ。あわれとおぼさずや――」
宿の主人《あるじ》が教師に語りしはこれに過ぎざりし。教師は都に帰りて後も源叔父《げんおじ》がこと忘れず。燈下に坐りて雨の音きく夜《よ》など、思いはしばしばこのあわれなる翁《おきな》が上に飛びぬ。思えらく、源叔父今はいかん、波の音ききつつ古き春の夜のこと思いて独り炉《ろ》のかたわらに丸き目ふさぎてやあらん、あるいは幸助がことのみ思いつづけてやおらんと。されど教師は知らざりき、かく想いやりし幾年《いくとせ》の後の冬の夜は翁の墓に霙《みぞれ》降《ふ》りつつありしを。
年若き教師の、詩読む心にて記憶のページ翻《ひるが》えしつつある間に、翁が上にはさらに悲しきこと起こりつ、すでにこの世の人ならざりしなり。かくて教師の詩はその最後の一|節《せつ》を欠《か》きたり。
中
佐伯《さいき》の子弟が語学の師を桂港《かつらみなと》の波止場に送りし年も暮れて翌年一月の末、ある日源叔父は所用ありて昼前より城下に出でたり。
大空曇りて雪降らんとす。雪はこの地に稀《まれ》なり、その日の寒さ推《お》して知らる。山村水廓《さんそんすいかく》の民《たみ》、河より海より小舟|泛《う》かべて城下に用を便ずるが佐伯近在の習慣《ならい》なれば番匠川《ばんじょうがわ》の河岸《かし》にはい
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