橋の袂《たもと》に眠りし犬|頭《くび》をあげてその後影を見たれど吠《ほ》えず。あわれこの人墓よりや脱け出《い》でし。誰《たれ》に遇い誰《た》れと語らんとてかくはさまよう。彼は紀州なり。
源叔父の独子《ひとりご》幸助海に溺《おぼ》れて失《う》せし同じ年の秋、一人の女乞食|日向《ひゅうが》の方《かた》より迷いきて佐伯の町に足をとどめぬ。伴《ともな》いしは八歳《やっつ》ばかりの男子《おのこ》なり。母はこの子を連れて家々の門に立てば、貰い物多く、ここの人の慈悲《めぐみ》深きは他国にて見ざりしほどなれば、子のために行末よしやと思いはかりけん、次の年の春、母は子を残していずれにか影を隠したり。太宰府《だざいふ》訪《もう》でし人帰りきての話に、かの女乞食に肖《に》たるが襤褸《ぼろ》着し、力士《すもうとり》に伴いて鳥居のわきに袖乞《そでご》いするを見しという。人々皆な思いあたる節なりといえり。町の者母の無情《つれなき》を憎み残されし子をいや増してあわれがりぬ。かくて母の計《はかりごと》あたりしとみえし。あらず、村々には寺あれど人々の慈悲《めぐみ》には限あり。不憫《ふびん》なりとは語りあえど、まじめに引取りて末永く育てんというものなく、時には庭先の掃除など命じ人らしく扱うものありしかど、永くは続かず。初めは童《わらべ》母を慕いて泣きぬ、人人物与えて慰めたり。童は母を思わずなりぬ、人人の慈悲《じひ》は童をして母を忘れしめたるのみ。物忘れする子なりともいい、白痴なりともいい、不潔なりともいい、盗《ぬすみ》すともいう、口実はさまざまなれどこの童を乞食の境《さかい》に落としつくし人情の世界のそとに葬りし結果はひとつなりき。
戯《たわむ》れにいろは教うればいろはを覚え、戯れに読本《とくほん》教うればその一節二節を暗誦し、小供らの歌聞きてまた歌い、笑い語り戯れて、世の常の子と変わらざりき。げに変わらずみえたり。生国を紀州《きしゅう》なりと童のいうがままに「紀州」と呼びなされて、はては佐伯町附属の品物のように取扱われつ、街《まち》に遊ぶ子はこの童とともに育ちぬ。かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り炊煙《すいえん》棚引《たなび》き親子あり夫婦あり兄弟《きょうだい》あり朋友《ほうゆう》あり涙ある世界に同居せりと思える間《ま》、彼はいつしか無人《むにん》の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。
彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ。彼の怒《いか》りしを見んは難《かた》く彼の泣くを見んはたやすからず、彼は恨みも喜びもせず。ただ動き、ただ歩み、ただ食らう。食らう時かたわらよりうまきやと問えばアクセントなき言葉にてうましと答うその声は地の底にて響くがごとし。戯れに棒振りあげて彼の頭上に翳《かざ》せば、笑うごとき面持《おももち》してゆるやかに歩みを運ぶ様《さま》は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして媚《こび》を人にささげず。世の常の乞食見て憐れと思う心もて彼を憐れというは至らず。浮世の波に漂うて溺《おぼ》るる人を憐れとみる眼には彼を見出さんこと難《かた》かるべし、彼は波の底を這《は》うものなれば。
紀州が小橋をかなたに渡りてより間もなく広辻に来かかりてあたりを見廻すものあり。手には小さき舷燈《げんとう》提《さ》げたり。舷燈の光|射《さ》す口をかなたこなたと転《めぐ》らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく閃《きら》めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き火影《ほかげ》飛びぬ。この時|本町《ほんまち》の方《かた》より突如《とつじょ》と現われしは巡査なり。ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、燈《ともしび》をかかげてこなたの顔を照らしぬ。丸き目、深き皺《しわ》、太き鼻、逞《たく》ましき舟子《ふなこ》なり。
「源叔父ならずや」、巡査は呆《あき》れし様《さま》なり。
「さなり」、嗄《しわが》れし声にて答う。
「夜|更《ふ》けて何者をか捜す」
「紀州を見たまわざりしか」
「紀州に何の用ありてか」
「今夜《こよい》はあまりに寒ければ家に伴わんと思いはべり」
「されど彼の寝床は犬も知らざるべし、みずから風ひかぬがよし」
情《なさけ》ある巡査は行きさりぬ。
源叔父は嘆息《ためいき》つきつつ小橋の上まで来しが、火影落ちしところに足跡あり。今踏みしようなり。紀州ならで誰かこの雪を跣足《すあし》のまま歩まんや。翁《おきな》は小走りに足跡向きし方《かた》へと馳《は》せぬ。
下
源叔父が紀州をその家に引取りたりということ知れわたり、伝えききし人初めは真《まこと》とせず次に呆れ終《はて》は笑わぬものなかりき。この二人が差向いにて夕餉《ゆうげ》につく様《さま》こそ見たけれなど滑稽芝居見まほしき心にて嘲《あ
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