見ゆるばかり、床《ゆか》低く屋根低く、立てし障子は地より直《たゞち》に軒に至るかと思はれ、既に歪《ゆが》みて隙間よりは鉤《つり》ランプの笠など見ゆ。肌脱《はだぬぎ》の荒くれ男の影鬼の如く映れるあり、乱髪の酌婦の頭の夜叉の如く映るかと思へば、床も落つると思はるゝ音が為て、ドツとばかり笑声の起る家もあり。「飲めよ」、「歌へよ」、「殺すぞ」、「撲《なぐ》るぞ」、哄笑、激語、悪罵、歓呼、叱咤、艶《つや》ある小節《こぶし》の歌の文句の腸を断つばかりなる、三絃の調子の嗚咽《むせぶ》が如き忽ちにして暴風、忽ちにして春雨《しゆんう》、見来れば、歓楽の中に殺気をこめ、殺気の中に血涙をふくむ、泣くは笑ふのか、笑ふのは泣くのか、怒《いかり》は歌か、歌は怒か、嗚呼《あゝ》儚《はかな》き人生の流よ! 数年前までは熊眠り狼住みし此渓間に流れ落ちて、こゝに澱《よど》み、こゝに激し、こゝに沈み、月影冷やかにこれを照して居る。
余は通り過ぎて振り顧《かへ》り、暫し停立《たゝず》んで居ると、突然間近なる一軒の障子が開《あ》いて一人の男がつと現はれた。
「や、月が出た!」と振上げた顔を見れば年頃二十六七、背高く肩広く屈強
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