人々は非常に奔走して、二十人の生徒に用いられるだけの机と腰掛けとを集めた、あるいは役場の物置より、あるいは小学校の倉の隅《すみ》より、半ば壊《こわ》れて用に立ちそうにないものをそれぞれ繕ってともかく、間に合わした。
 明日は開校式を行なうはずで、豊吉自らも色んな準備をして、演説の草稿まで作った。岩――の士族屋敷もこの日はそのために多少の談話と笑声《しょうせい》とを増し、日常《ひごろ》さびしい杉の杜《もり》付近までが何となく平時《ふだん》と異《ちが》っていた。
 お花は叔父のために『君が代』を唱うことに定まり、源造は叔父さんが先生になるというので学校に行ってもこの二、三|日《ち》は鼻が高い。勇は何で皆が騒ぐのか少しも知らない。
 そこでその夜《よ》、豊吉は片山の道場へ明日の準備のしのこり[#「しのこり」に傍点]をかたづけにいって、帰路、突然方向を変えて大川の辺《ほとり》へ出たのであった。「髯」の墓に豊吉は腰をかけて月を仰いだ。「髯」は今の豊吉を知らない、豊吉は昔の「髯」の予言を知らない。
 豊吉は大川の流れを見|下《お》ろしてわが故郷《ふるさと》の景色をしばし見とれていた、しばらくしてほっと嘆息《ためいき》をした、さもさもがっかり[#「がっかり」に傍点]したらしく。
 実にそうである、豊吉の精根は枯れていたのである。かれは今、堪《た》ゆべからざる疲労を感じた。私塾の設立! かれはこの言葉のうち、何らの弾力あるものを感じなくなった。
 山河月色《さんかげっしょく》、昔のままである。昔の知人の幾人《いくたり》かはこの墓地に眠っている。豊吉はこの時つくづくわが生涯の流れももはや限りなき大海《だいかい》近く流れ来たのを感じた。われとわが亡友《なきとも》との間、半透明の膜一重《まくひとえ》なるを感じた。
 そうでない、ただかれは疲れはてた。一杯の水を求めるほどの気もなくなった。
 豊吉は静かに立ち上がって河の岸に下りた。そして水の潯《ほとり》をとぼとぼとたどって河下《かわしも》の方へと歩いた。
 月はさえにさえている。城山《じょうざん》は真っ黒な影を河に映している。澱《よど》んで流るる辺《あた》りは鏡のごとく、瀬をなして流るるところは月光砕けてぎらぎら輝《ひか》っている。豊吉は夢心地になってしきりに流れを下った。
 河舟《かわぶね》の小さなのが岸に繋《つな》いであった。豊吉は
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