河霧
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)上田豊吉《うえだとよきち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十年|前《まえ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]
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 上田豊吉《うえだとよきち》がその故郷《ふるさと》を出たのは今よりおおよそ二十年ばかり前のことであった。
 その時かれは二十二歳であったが、郷党みな彼が前途《ゆくすえ》の成功を卜《ぼく》してその門出《かどで》を祝した。
『大いなる事業』ちょう言葉の宮の壮麗《うるわ》しき台《うてな》を金色《こんじき》の霧の裡《うち》に描いて、かれはその古き城下を立ち出《い》で、大阪京都をも見ないで直ちに東京へ乗り込んだ。
 故郷の朋友《ほうゆう》親籍《しんせき》兄弟《けいてい》、みなその安着の報《しらせ》を得て祝し、さらにかれが成功を語り合った。
 しかるに、ただ一人《ひとり》、『杉の杜《もり》のひげ』とあだ名せられて本名は並木善兵衛《なみきぜんべえ》という老人のみが次のごとくに言った。
『豊吉が何をしでかすものぞ、五年十年のうちにはきっと蒼《あお》くなって帰って来るから見ていろ。』
『なぜ?』その席にいた豊吉の友が問うた。
 老人は例の雪のような髭髯《ひげ》をひねくりながらさみしそうに悲しそうに、意地のわるそうに笑ったばかりで何とも答えなかった。
 そこで少しばかりこの老人の事を話して置くが、「杉の杜《もり》のひげ」と言われてその名が通っているだけ、岩――のものでそのころこの奇体な老人を知らぬ者はないほどであった。
 髭髯《ひげ》が雪のように白いところからそのあだ名を得たとはいうものの小さなきたならしい老人で、そのころ七十いくつとかでもすこぶる強壮なこつ[#「こつ」に傍点]こつした体格《からだ》であった。
 この老人がその小さな丸い目を杉の杜《もり》の薄暗い陰でビカビカ輝《ひか》らせて、黙って立っているのを見るとだれも薄気味の悪い老翁《じいさん》だと思う、それが老翁《じいさん》ばかりでなく「杉の杜」というのが、岩――の士族屋敷ではこの「ひげ」の生まれない前のもっと前からすでに気味の悪いところになっているので幾百年か
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