んで了《しま》った。僕は思わず、
『母上《おっかさん》如何《どう》か仕て居なさるよ、気を附けんと……』
 里子は不安心な顔をして、
『私|真実《ほんと》に気味が悪いわ。母上《おっかさん》は必定《きっと》何にか妙なことを思って居るのですよ。』
『ちっと神経を痛めて居なさるようだね。』と僕も言いましたが、さて翌日になると別に変ったことはないのです。変って居るのは唯々《ただ》何時《いつ》もの通り夜になると不動様を拝むことだけで、僕等《ぼくら》もこれは最早《もはや》見慣れて居るから強《しい》て気にもかゝりませんでした。
 処《ところ》が今歳《ことし》の五月です、僕は何時《いつも》よりか二時間も早く事務所を退《ひい》て家へ帰りますと、其《その》日《ひ》は曇って居たので家の中は薄暗い中《うち》にも母の室《へや》は殊《こと》に暗いのです。母に少し用事があったので別に案内もせず襖《ふすま》を開《あ》けて中に入ると母は火鉢《ひばち》の傍《そば》にぽつねんと座って居《い》ましたが、僕の顔を見るや、
『ア、ア、アッ、アッ!』と叫んで突起《つったっ》たかと思うと、又|尻餅《しりもち》を舂《つい》て熟《じっ》と
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