たことではありませんから。」
「難有《ありがと》う御座います。それで僕も安心しました。イヤ真《まこと》に失礼しました匆卒《いきなり》貴様を詰《とが》めまして……」と彼は人を圧《おし》つけようとする最初の気勢とは打《うっ》て変り、如何《いか》にも力なげに詫《わび》たのを見て、自分も気の毒になり、
「何もそう謝るには及びません、僕も実は貴様が先刻僕の前に佇立《つった》って僕ばかり見て居《い》た時の風が何《なん》となく怪《あやし》かったから、それで此処《ここ》へ来て貴様《あなた》の為《す》ることを覗《うか》ごうて居たのです。矢張《やはり》貴様を覗がったのです。けれども彼《あ》の事が貴様の秘密とあれば、堅く僕は其《その》秘密を守りますから御安心なさい。」
彼は黙って自分の顔を見て居たが、
「貴様は必定《きっと》守って下さる方です。」と声をふるわし、
「如何《どう》でしょう、一つ僕の杯《さかずき》を受けて下さいませんか。」
「酒ですか、酒なら僕は飲ないほうが可《よ》いのです。」
「飲まないほうが! 飲まないほうが! 無論そうです。もう飲まないで済むことなら僕とても飲まないほうが可いのです。けれども僕は飲《のむ》のです。それが僕の秘密なんです。如何でしょう、僕と貴様と斯《こう》やって話をするのも何かの運命です、怪《あやし》い運命ですから、不思議な縁ですから一つ僕の秘密の杯を受けて下さいませんか、え、如何でしょう、受けて下さいませんか。」という言葉の節々、其《その》声音《こわね》、其眼元、其顔色は実《げ》に大《おおい》なる秘密、痛《いたま》しい秘密を包んで居《い》るように思われた。
「よろしゅう御座います、それでは一つ戴《いただ》きましょう。」と自分の答うるや直《す》ぐ彼は先に立《たっ》て元の場処《ばしょ》へと引返えすので、自分も其|後《あと》に従った。
二
「これは上等のブランデーです。自分で上等も無いもんですが、先日上京した時、銀座の亀屋《かめや》へ行って最上のを呉《く》れろと内証《ないしょう》で三本|買《かっ》て来て此処《ここ》へ匿《かく》して置いたのです、一本は最早《もう》たいらげ[#「たいらげ」に傍点]て空罎《あきびん》は滑川《なめりがわ》に投げ込みました。これが二本目です、未《ま》だ一本この砂の中に埋《うず》めてあります、無くなれば又買って来ます。」
前へ
次へ
全24ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング