紙で詳しく言ってやろうかとも思ったが、廻《まわ》りくどいから喚《よ》んだのだ。お前も卒業までと思ったろうし、又大学までとも志《こころざ》して居《い》たろうけれど、人は一日も早く独立の生活を営む方が可《え》えことはお前も知って居るだろう。それでお前これから直《す》ぐ私立の法律学校に入るのじゃ。三年で卒業する。弁護士の試験を受ける。そした暁《あかつき》は私と懇意な弁護士の事務所に世話してやるから、其処《そこ》で四五年も実地の勉強をするのじゃ。其《その》内《うち》に独立して事務所を開けば、それこそ立派なもの、お前も三十にならん内、堂々たる紳士となることが出来る。如何《どう》じゃな、其方が近道じゃぞ。』という父の言葉を聴《き》いて居る、僕の心の全く顛動《てんどう》したのも無理はないでしょう。
 これ実に他人の言葉です。他人の親切です。居候《いそうろう》の書生に主人の先生が示す恩愛です。
 大塚剛蔵は何時《いつ》しか其自然に返って居たのです。知らず/\其自然を暴露《しめ》すに至ったのです。僕を外《そと》に置くこと三年、其《その》実子なる秀輔《ひですけ》のみを傍《かたわら》に愛撫《あいぶ》すること三年、人間が其天真に帰るべき門、墳墓に近《ちかづ》くこと三年、此《この》三年の月日は彼をして自然に返らしたのです。けれども彼は未《ま》だ其自然を自認することが出来ず、何処《どこ》までも自分を以前の父の如《ごと》く、僕を以前の子の如く見ようとして居るのです。
 其処《そこ》で僕は最早《もはや》進んで僕の希望《のぞみ》を述《のべ》るどころではありません。たゞこれ命《めい》これ従《した》がうだけのことを手短かに答えて父の部屋を出てしまいました。
 父ばかりでなく母の様子も一変して居たのです。日の経《た》つに従ごうて僕は僕の身の上に一大秘密のあることを益々《ますます》信ずるようになり、父母の挙動に気をつければつけるほど疑惑の増すばかりなのです。
 一度は僕も自分の癖見《ひがみ》だろうかと思いましたが、合憎《あいにく》と想起《おもいおこ》すは十二の時、庭で父から問いつめられた事で、彼《あれ》を想《おも》い、これを思えば、最早《もはや》自分の身の秘密を疑がうことは出来ないのです。
 懊悩《おうのう》の中《うち》に神田の法律学校に通って三月も経《たち》ましたろうか。僕は今日こそ父に向い、断然|此方《
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