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大塚の隣屋敷に広い桑畑《くわばたけ》があって其横に板葺《そぎぶき》の小《ちいさ》な家がある、それに老人《としより》夫婦と其ころ十六七になる娘が住《すん》で居ました。以前は立派な士族で、桑園《くわばたけ》は則《すなわ》ち其屋敷跡だそうです。此《この》老人《としより》が僕の仲善《なかよし》でしたが、或日《あるひ》僕に囲碁の遊戯《あそび》を教えて呉《く》れました。二三日|経《たっ》て夜食の時、このことを父母に話しました処《ところ》、何時《いつ》も遊戯《あそび》のことは余り気にしない父が眼《め》に角《かど》を立《たて》て叱《しか》り、母すら驚いた眼を張って僕の顔を見つめました。そして父母が顔を見合わした時の様子の尋常でなかったので、僕は甚《はなは》だ妙に感じました。
何故《なぜ》僕が囲碁を敵としなければならぬか、それも後に解《わか》りましたが、其《それ》が解った時こそ、僕が全く運命の鬼に圧倒せられ、僕が今の苦悩を甞《な》め尽す初《はじめ》で御座いました。
四
僕の十六の時、父は東京に転任したので大塚|一家《いっけ》は父と共に移転しましたが、僕だけは岡山中学校の寄宿舎に残されました。
僕は其《その》後《ご》三年間の生活を思うと、僕の此《この》世《よ》に於《お》ける真《まこと》の生活は唯《た》だ彼《あ》の学校時代だけであったのを知ります。
学生は皆な僕に親切でした。僕は心の自由を恢復《かいふく》し、悪運の手より脱《のが》れ、身の上の疑惑を懐《いだ》くこと次第に薄くなり、沈欝《ちんうつ》の気象までが何時《いつ》しか雪の融《と》ける如《ごと》く消えて、快濶《かいかつ》な青年の気を帯びて来ました。
然《しか》るに十八の秋、突然東京の父から手紙が来て僕に上京を命じたのです。穏《おだやか》な僕の心は急に擾乱《かきみだ》され、僕は殆《ほと》んど父の真意を知るに苦しみ、返書を出して責めて今一年、卒業の日まで此《この》儘《まま》に仕て置いて貰《もら》おうかと思いましたが、思い返して直ぐ上京しました。麹町《こうじまち》の宅に着くや、父は一室《ひとま》に僕を喚《よ》んで、『早速《さっそく》だがお前と能《よ》く相談したいことが有るのだ。お前これから法律を学ぶ気はないかね。』
思いもかけぬ言葉です。僕は驚いて父の顔を見つめたきり容易に口を開くことが出来ない。
『実は手
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