考がえて居るじゃないかと思うから、それで訊《き》くのだ。何《なん》にも聞かんのなら其《それ》で可《え》え。サア正直に言え!』と今度は真実《ほんと》に怒って言いますから、僕は何《なん》のことか解《わか》らず、たゞ非常な悪いことでも仕《し》たのかと、おろ/\声で、
『御免なさい、御免なさい。』
『馬鹿! 大馬鹿者! 誰《たれ》が謝罪れと言った。十二にもなって男の癖に直《す》ぐ泣く。』
 怒鳴られたので僕は喫驚《びっくり》して泣きながら父の顔を見て居《い》ると、父も暫《しばら》くは黙って熟《じっ》と僕の顔を見て居ましたが、急に涙含《なみだぐ》んで、
『泣《なか》んでも可《え》え、最早《もう》乃父《おれ》も問わんから、サア奥へ帰るが可《え》え、』と優《やさ》しく言った其《その》言葉は少ないが、慈愛に満《みち》て居たのです。
 其後でした、父が僕のことを余り言わなくなったのは。けれども又其後でした僕の心の底に一片の雲影の沈んだのは。運命の怪しき鬼が其|爪《つめ》を僕の心に打込んだのは実に此《この》時《とき》です。
 僕は父の言葉が気になって堪《たま》りませんでした。これも普通の小供《こども》なら間《ま》もなく忘れて了《しま》っただろうと思いますが、僕は忘れる処《どころ》か、間《ま》がな隙《すき》がな、何故《なぜ》父は彼《あ》のような事を問うたのか、父が斯《か》くまでに狼狽《ろうばい》した処《ところ》を見ると、余程の大事であろうと、少年心《こどもごころ》に色々と考えて、そして其大事は僕の身の上に関することだと信ずるようになりました。
 何故《なぜ》でしょう。僕は今でも不思議に思って居るのです。何故父の問うたことが僕の身の上のことと自分で信ずるに至ったでしょう。
 暗黒《くらき》に住みなれたものは、能《よ》く暗黒《くらき》に物を見ると同じ事で、不自然なる境に置《おか》れたる少年は何時《いつ》しか其《その》暗き不自然の底に蔭《ひそ》んで居る黒点を認めることが出来たのだろうと思います。
 けれども僕の其黒点の真相を捉《とら》え得たのはずっと後のことです。僕は気にかかりながらも、これを父に問い返すことは出来ず、又母には猶更《なおさ》ら出来ず、小《ちいさ》な心を痛めながらも月日を送って居ました。そして十五の歳《とし》に中学校の寄宿舎に入れられましたが、其前に一ツお話して置く事があるのです
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