アラブ人から歐洲に傳へたものといふことに傾いて居ます。
歐洲へ火藥が傳はつた後ち、火器は次第に改良されて、十六世紀の初になると、有效な鐵砲が製作されて、歐洲の戰術も爲に一變する氣運になる。丁度この十六世紀の半頃の天文年間に、鐵砲がポルトガル人の手を經て、我が國に輸入される。戰國時代とて、間もなくこの舶來の新武器が日本全國に採用されて、五十年後の文禄征韓の頃には、我が國の尤も有力な武器となつたのであります。當時朝鮮人は、殆ど火器殊に鳥銃の使用を知りませぬ。明軍とても遼東方面から來た兵隊は、朝鮮人よりも一層火器の使用に不案内であつた位故、朝鮮人も明人も、皆我が軍の鐵砲に辟易しました。當時我が軍の戰術は、先づ鐵砲で敵軍を威嚇して置いて、日本刀にて切り卷くるのであるから、支那や朝鮮の記録を見ると、何れもこの二つの武器に大閉口して居る。文禄の役に我が軍が勝利を得た原因は、種々ありますけれど、よく鐵砲を使用したことが、確にその重なる原因の一つと申さなければなりませぬ。三百年前の弘安の時には、我が國は蒙古・高麗の聯合軍の爲に、鐵砲で散々惱されたが、三百年後の文禄の時には、同じく鐵砲で朝鮮・明の聯合軍を打ち惱まして、首尾よくさきの仕返しをいたした譯であります。
最早豫定の時間に達したから、急いで結論だけを申し述べます。先刻から約一時間の講演は、誠に不充分なものでありますが、實はこの講演の主意は、必ずしも事實の考證のみを主とした譯ではなく、事實のうちから若干の教訓を得たいといふ、目的をももつて居るのであります。そこで結論として、一二の教訓を申述べて置きたい。
(第一) 單に發明といふ點から申せば、長い歴史をもつて居る東洋人は、必ずしも西洋人に劣らぬかも知れぬ。印刷や製紙や羅針盤や火藥の外に、商業の方面では、爲替や紙幣の發行、工藝の方面では、※[#「茲/瓦」、読みは「じ」、158−7]器や漆器の製造なども、先づ支那で發明されたものらしい。近來の支那人は、例の自惚根性から、あらゆる世界の文化や文明は、支那から始まつた樣に主張するものもある。列國平和會議(弭兵會)なども支那が開祖で、已に二千四五百年前の春秋時代に實行されて居る。赤十字社の事業も、同時代から支那で實行されて居る。新聞紙の發行も、議院の開設も、支那が家元であるかの如く吹聽する者も居る。勿論これらは相當に割引を要し、その儘
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