この火藥利用の飛道具の爲に、さしもの蒙古軍も散々に苦しめられたといふ。
元來※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]又は砲とは、石を飛ばす機械で、支那では秦漢以前の古代から、戰場で使用されたものである。丁度|撥釣瓶《はねつるべ》の樣な仕掛けで、大石を敵の軍中へ撥飛ばすのであります。これは宋・元・明の後代までも使用されて居ります。所が火藥を使用することになつてから、鐵の器の中に火藥を盛り、同樣の仕掛けで之を敵陣へ投げ飛ばし、爆發せしむることとなつた。石を投げ飛ばす普通の砲と區別して、之を鐵砲又は火砲といふので、之が鐵砲の本義であります。
そこで以上申述べました歴史上の事實――大部分は趙翼の『※[#「こざとへん+亥」、読みは「がい」、156−11]餘叢考』によつたので、私自身はまだ根本的に調査せぬ所もあるが――によると、鐵砲や火藥は、宋人が先づ之を使用して金を苦しめ、金人は又之を使用して蒙古を苦しめて居るのであるから、どうも宋人が最も早く火藥や鐵砲の使用を知つて、之が金人・蒙古人と傳はつたものと想はれるのであります。
蒙古軍が我が國に來冦した時、この鐵砲といふ新武器で、大いに我が國を惱ましたもので、當時の事實を記録した正應年間の古寫本(『伏敵編』所引)に、
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てつほうとて鐵丸に火を包で、烈しくとばす。あたりてわるゝ時、四方に火炎ほとばしりて、烟を以てくらます。又その音甚だ高ければ、心を迷はし、きもを消し、目くらみ、耳ふさがれて、東西をしらずなる。之が爲に打るゝ者多かり。
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とあるに據ると、我が將士が鐵砲の攻撃に、困難周章した有樣を察知することが出來る。
蒙古軍は西域征伐をもやつたが、勿論この時火藥や鐵砲を使用したものと認められる。蒙古軍との觸接で、アラブ人(サラセン人)が火藥と鐵砲の使用を知つたのは、西暦十三世紀の半頃のことであらうと想はれます。兔に角火藥は支那からサラセン國へ傳つたものと見え、アラブ人は火藥の主要成分である硝石を Thelg as Sin 即ち支那の雪と呼び、火箭の事を Sahm Khatai 即ち支那矢と稱したさうであります。降つて西暦十四世紀になると、アラブ人から火藥が歐洲へ傳はりました。歐洲に於ける火藥の起源については、從來種々異説もありますが、近時火藥や火器の歴史を研究した學者の説は、多く
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