印刷といひ製紙といひ、將た羅針盤の使用といひ、何れも平和的發明であるから、今度は方面を變へて、殺伐な發明の火藥のことを紹介いたさうと思ふ。支那人は可なり古い時代から火藥の使用を知つて居つたやうであるが、その火藥の成分は不明である。〔火藥が焔硝・硫黄・柳炭等の混合物から成立し、之を爆發用として軍事に使用した事實は、同僚の矢野博士が始めて指摘された如く(大正六年七月號『史林』)、北宋の仁宗時代に編纂された『武經總要』に見えて居る。その以前の事實は判然いたしませぬ。〕
清の趙翼といふ有名な史學者の説によると、西暦十二世紀の半頃(西暦一一六一)に、金の海陵王即ち例の立馬呉山第一峰と傲語した女眞の君主が、南宋に入冦しました。南宋の方では之を揚子江畔の采石で防ぎ戰つたが、この時宋軍は霹靂砲《へきれきはう》といふ武器を使用して、金軍を苦しめて居る。これは火藥を敵の陣中に撥ね飛ばす器械で、爆發する時の音によつて霹靂砲と名付けたものと見えます。當時の火藥は硝石・硫黄・柳炭等で作られたもので、大體に於て後世の火藥と相違がないといふ。趙翼の説は何に據つたか、その説の根本史料をよく承知せぬから、絶對に信用する譯には參らぬが、しばらく趙翼の説によると、火藥が實地の戰爭に使用されてゐるのは、この時が最初であります。
この時から更に七十年程後くれて、西暦十三世紀になると、蒙古軍が金を攻めて、その都の※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]京を圍んだ時、城中の金人が盛に火藥を使用して敵を苦しめ、震天雷など稱する火砲を使用して、火藥を敵陣に飛ばして居る。之は鐵の器に火藥を盛つて、それに火を點じて砲といふ機械で、敵の陣中へ投げ飛ばすのである。その爆發する時の有樣は、其聲如[#レ]雷、聞[#二]百里外[#一]と記してあるが、支那人の記事故、多少のおまけはあるにしても、震天雷といふ名から推して、大なる爆聲を發したことがわかる。しかのみならずその爆發の時は、附近の兵士に尠からず火傷を負はしたといふことであります。
金人は又別に飛火槍といふ火器をも使用して居ります。之は紙筒の中に火藥――柳炭・硫黄・硝石・鐵屑・磁末等――を盛つて、金屬製の棒の先端に釣り下げ、敵が近づくと、別に携帶して居る鐵の鑵の中に入れてある火を取出して、紙筒に火を點ずると、火藥が前方へ十餘歩も飛び出して、爆發するのである。
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