ふ所の紙の製造法を知らずに、ひたすら不便極まるパピルスや革紙を使用して居つたのであります。
西暦八世紀に有名な唐の玄宗の時代になると、かのマホメットの建てたサラセン國、即ち唐でいふ大食國と唐との間に戰爭が起りまして、二國の軍隊が中央アジアの怛邏斯《タラス》といふ處で戰爭をした。此時に唐の方が敗けて、澤山の支那兵士が捕虜となつたが、この捕虜の中に唐の紙漉《かみすき》職工がありましたから、サラセンの大將は、この紙漉職工を使役して、中央アジアのサマルカンドといふ都で、初めて製紙工場を建て、其所で支那風の紙を製造することに着手した。是が唐の玄宗の天寶十載すなはち西暦七百五十一年のことで、サラセン國に紙の製造の傳はつた起源であります。これまでの革紙などに比較すると便利で、價格も低廉であるから、需要は日を逐うて増加いたし、サラセンの領内のアラビア、ペルシア、スペイン、エジプト、シリヤ地方で、支那紙の製造工場が、どしどし開設される。製造業の勃興につれて從來のパピルスや革紙などは次第に勢力を失つたは勿論、この頃まで矢張り不便な、パピルスとか、革紙とかを使用して居つた西洋諸國へ、このサラセンで製造された紙が段々と輸出されました。そこで西洋の方でもパピルスや、革紙は次第に勢力を失つて、十四五世紀になると、歐洲でも製紙業が發達し、印刷術の應用と並んで、近世文明の發達を促がす大原因となつたものである。この紙の歴史については、私は京都大學から出て居る『藝文』と云ふ雜誌に、可なり詳しく述べて置きましたから、此處では極めて大略のみを紹介した譯であります。
〔次に遠洋渡航に尤も必要である羅針盤も、先づ支那で發明されたものらしい。實は羅針盤の發明や傳播の歴史は、まだ十分に研究されて居りませぬ。しかし今日まで知られた確實な文獻によると、支那では西暦十一世紀の末か、十二世紀の初に、既に航海に羅針盤を使用して居るが、アラビアや歐洲方面では、約百年後の十二世紀の末か十三世紀の初に、羅針盤の使用が見えて來るといふ。東西傳播の經路は未だ明瞭ではないが、今日の處では兔に角東洋方面で、より早く羅針盤が使用されて居つた事實は承認せなければならぬ。當時アラブ人は、東西兩用の間に、盛に海上交通を營んで居つたから、このアラブ人の媒介で、羅針盤の使用が、東洋から西洋へ傳播したものかと、想像すべき餘地が多い樣であります。〕
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