一〇二)八月に、都の洛陽に到着いたし、その翌九月に病死した。年は七十一である。三十年間思慕已まなかつた中國の首都で瞑目したのは、彼にとつて寧ろ望外の幸と申さねばならぬ。
三
彼の後任者として西域都護となつたのは任尚である。任尚は烏桓や匈奴の塞外種族と交渉の任に當つた經驗もあり、又西域の事務を管掌した經驗もあり、當時に在つては、最も適當なる班超の後任者と認められて居つた。併しその實任尚は到底班超だけの度量がない。當時塞外に居る胥吏士卒らは、弛刑とて、刑状持ちで執行猶豫された者が多い。これらの吏卒を利用するのは、度胸のある豪傑でなけねば[#「なけねば」はママ]ならぬ。然るに任尚は班超の忠告を無視して、餘りに嚴急な取締をなした故、忽ち部下の反抗を招き、續きて西域諸國も離叛いたし、折角班超の圖も、僅か五年の間に破壞せられ、西域都護府も閉鎖さるることとなつた。
支那の歴代を通覽すると、塞外經營に力を盡した時代も尠なくない。その時代毎に相當の人物も出て居る。併しその功業に於て、その人物に於て、班超の前に班超なく、班超の後に班超がない。梁啓超が曾て班超を贊して、
吾讀[#二]後漢書[#一]。吾乃知[#丁]我二千年前之先民。有[#丙]以[#二]一身[#一]而兼[#乙]克(クライヴ)哈(ヘースチングス)二傑之所長[#甲]。(中略)斯眞千古之快男兒。斯眞世界之大英雄。斯何人。斯則班侯(定遠侯班超)是已。
と申して居るが、必ずしも溢美過褒といへぬ。
吾が輩が特に班超に心を寄せる所以は、彼はかかる種類の人物に普通な、殺伐殘忍などいふ缺點は微塵もなく、人格の如何にも温良恭謙なことである。
(一) 彼は母に事へてよく孝に、兄に對してよく悌であつた。
(二) 彼は家風とはいへ、文筆にも達して居つたことは『後漢書』の本傳の上疏を見ても明白である。
(三) 彼は決して塞外人を虐殺せなかつた。戰場での俘虜も、大抵はその生命を全くしてやつた。彼が塞外人の心服を得た一原因は、ここに在ると思ふ。和帝の詔書に班超の功を稱して、「得[#二]遠夷之和[#一]。同[#二]異俗之心[#一]」とあるのは此點を指したものであらう。
(四) 曾て李邑といふ者、班超を讒して、西域經營を中止せしめん陰謀を廻らしたことがある。その李邑がやがて班超の許に往きて、その命令を奉ぜねばならぬこととなつた。
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング