威徳に懷ける疏勒于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]の人々は、その馬を控へ、その行を遮る有樣に、班超は獨斷にて、西域經營を繼續する決心をした。
爾後五年の間、彼は全く本國から絶縁されて、僅々三十餘人の部下と共に、疏勒に留まつた。この間彼は尤も完全に尤も有效に、いはゆる以[#レ]夷制[#レ]夷政策を實行した。以[#レ]夷制[#レ]夷といふことは、已に西漢時代から、支那外交の最高政策と認められ、今日まで慣用されて居るが、班超ほど有效に、この政策を實行した人はあるまいと思ふ。建初五年(西暦八〇)に、始めて本國より千餘人の援兵を送られて以來、彼は一層目覺しい成功を遂げた。即ち章帝の章和元年(西暦八七)には、莎車(今の葉爾羌《ヤルカンド》)龜茲(今の庫車《クチヤ》)温宿(今の阿克蘇《アクス》)姑墨(今の拜《パイ》)尉犂(今の烏什《ウチ》)五國の聯合軍五萬を、詭計を用ゐて、その勢力を分割せしめ、一擧にして之を撃破して居る。章帝の子和帝の永元二年(西暦九〇)には大月氏七萬の侵入軍を、持久の計略をかけて、降服させて居る。かくて和帝はその翌年(西暦九一)に西域都護府を再興して、班超をその都護に任じた。ついで永元六年(西暦九四)には、西域一帶に班超の威風に靡き、監子を送つて漢に歸順するもの、五十餘國に及んだ。班超はこの功勞によつて定遠侯に封ぜられ、年來の素懷を遂げた譯である。この前後二十年に渉れる班超の外交軍略の手腕、誠に感服の外ない。彼の成功は決して偶然でないと思ふ。
班超は西域都護の任に在ること十三年の間に、漢の國威を遠くペルシア方面まで發揚させた。彼が大秦(ローマ帝國)と交通を開かんために、部將甘英を派遣したのは、永元九年(西暦九七)のことである。甘英が使命を果さずに、ペルシア灣頭から東歸したのは、千歳の下なほ遺憾に堪へざる次第である。
流石の班超も寄る年波に敵し兼ね、しばしば辭任を歎願したが、朝廷では彼に代り得べき適任者なき故、中々許可とならぬ。最後に彼の妹の班昭は、兄に代つて悲痛なる上書をした。此上書は『後漢書』の班超傳に附載されてあるが、筆情兼ね備はる點に於て、孔明の出師表や、李密の陳情表に比敵し得べき名文と思ふ。出師表は忠義を骨子とし、陳情表は孝行を骨子とし、班昭のは友情を骨子として居る。和帝も班昭の至情に感動されて、班超の歸國を許した。彼は永元十四年(西暦
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