か。(大丈夫當[#下]立[#二]功異域[#一]以取[#中]封侯[#上]。安能久事[#二]筆研間[#一]乎)
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と嘆息して、無智な仲間達から嘲笑されたこともある。
兔角する間に、光武帝の子明帝は永平十六年(西暦七三)に竇固を大將として匈奴征伐をやつた。この時班超は竇固の部下に加はり天山の麓の蒲類《バル》海(今の巴爾庫爾《バルクル》)の戰ひに功名を建てた。
一體匈奴征伐を徹底せしめんには、是非匈奴に服從して居る西域諸國の經營を忽にすることが出來ぬ。西漢の明帝の匈奴を征伐する時に、實にこの計畫を採つた。竇固も亦漢武の故智を襲ひ、西域經營に手を着けることとなつた。この使命の選に當つたのが、前に蒲類海で手腕を示した班超で、彼は三十六人の部下を引率して、尤も手近な※[#「善+おおざと」、第3水準1−92−81]善國に往き、漢に歸順せんことを勸誘した。最初は※[#「善+おおざと」、第3水準1−92−81]善王も漢使一行を厚遇したが、間もなく匈奴の使者が百餘人の大勢で、その國に乘り込み來ると、打つて變つて班超らを虐待し始めた。班超は非常手段の外に良策なきを覺り、不[#レ]入[#二]虎穴[#一]不[#レ]得[#二]虎子[#一]といふ警句を以て、その同伴者を激勵いたし、三十六人にて匈奴の一行を夜襲して、その正副使以下を鏖《みなごろし》にした。この蠻勇に恐怖して、※[#「善+おおざと」、第3水準1−92−81]善王は遂に漢に降服した。
二
明帝は班超の成功を嘉納せられ、改めて彼に西域經營を命ぜられた。班超は依然三十六人の小勢にて、※[#「善+おおざと」、第3水準1−92−81]善の西なる于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54](今の和※[#「門<眞」、第3水準1−93−54])王を屈服せしめ、その翌年(西暦七四)には、謀を設けて、頑強な疏勒(今の喀什※[#「口+葛」、第3水準1−15−20]爾《カシユガル》)王を擒にして居る。かくて班超は僅々二年の間に、西域の半ばを平定したが、永平十八年(西暦七五)に明帝崩じて、その子の章帝が位に即かれた。この機會に乘じて、西域諸國は連合して、漢の勢力を摧破することを企てたから、章帝も一時西域經營を中止して、班超を召還した。折角の功業を一旦に廢棄せなければならぬ、班超の遺憾は想像に餘りある。幸に彼の
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