アの碑を僞造したなどは、種々の事情から推して、到底想像することが出來ぬ。
(三)[#「(三)」は縦中横]景教碑に長安の義寧坊に大秦寺を建てたとあるが、この大秦寺は唐の玄宗の開元中(西暦七一三年乃至七四一年)に、韋述の作つた『兩京新記』に、長安の義寧坊の波斯胡寺と記載されてある。ネストル教の寺院は、もと波斯寺と稱せられたのを、玄宗の天寶四載(西暦七四五)の詔で、爾後、大秦寺と改稱したのであるから、建中二年(西暦七八一)建立の景教碑にいふ義寧坊の大秦寺とは、即ち『兩京新記』の義寧坊の波斯胡寺なること申す迄もない。この事實は、景教碑の當時の眞物たることを支持すべき一つの證據と思ふ。
(四)[#「(四)」は縦中横]景教碑に玄宗即位の初年(西暦七一三)のネストル教の僧の及烈(Gabriel ?)の記事があるが、この及烈のことは、『册府元龜』卷五百四十六にも記載されて居る。兩者の記事の一致は、又この碑が後世の僞造にあらざる、一證據に資することが出來る(29)。
(五)[#「(五)」は縦中横]景教碑文を作つた大秦寺の僧の景淨のことは、徳宗時代に撰述された『貞元新定釋教目録』卷十七に、彌尸訶教を唱へた景淨として記載されて居る。この事實も亦、景教碑が唐時代の眞物であるべき一の證據と認めねばならぬ(30)。
(六)[#「(六)」は縦中横]この碑に刻されてあるシリア文字は、エストランゲロ(Estrangelo)といふ、當時のネストル教徒の慣用した古體の文字で、明末支那に布教して居つたジェスイット派の宣教師達の大多數は、全くこの文字に關する智識をもたなかつた。現にセメドの如きも、ディアズの如きも、之を讀むことは勿論、そのシリア文字たることすら知り得なかつた。セメドがその後ち歐洲への歸途に、印度に立ち寄り、その地に滯在して居つた博識の同志に質して、始めてシリア文字たることを知つた程である。始めてこの碑のシリア文を譯出した人は、上述のローマのキルヘルスであるが、今日から見ると、その譯文には間違が尠くない。現代のシリア語專門の大家の説によると、キルヘルスを始め、十七世紀頃の歐洲の學者に、エストランゲロ體のシリア文を完全に譯し得た人は、殆どなかつたであらうといふ(31)。されば當時支那に布教したジェスイット派の人々が、此の如き解し難いシリア文を勒せる、景教碑を僞造し得る筈がない。
(七)[#「(七)」は縦中横]この碑のシリア文に、唐の國都の長安のことを、クムドン(Kumd{a}n)又はクムダン(Kumdan)と記してある。クムダンとは、唐時代を通じて、東ローマ人やマホメット教徒が、長安を呼んだ名稱であるが、何が故に長安をしかく稱したかの十分なる解釋は、未だ學界に發表されて居らぬ。私はクムダンとは、長安の通稱たる京城の音譯の轉訛したものと確信して居る(32)。そは兔に角、明末支那に布教して居つた人々は申すに及ばず、西暦十七世紀初半の歐洲の學者でも、クムダンの長安たることを知り得なかつた筈である。それに拘らず、この碑に長安に對してクムダンの名稱を使用して居る事實は、この碑を明末の偽作とする疑惑を、一掃せしむべきものと思ふ。
(八)[#「(八)」は縦中横]敦煌地方から發掘された遺書の中から、『景教三威蒙度讚』や『一神論』の如き、唐時代に漢譯された景教の經典が世間に現はれて來た(33)。此等の遺書は、景教が唐時代に流行した事實を裏書し、併せて景教碑の眞物たることを確保する。
(九)[#「(九)」は縦中横]殊にその漢譯の景教の經典中に、景教碑に見える阿羅本や景淨のことを記載してあつて(34)、經典と碑文とよく一致することは、この碑の眞物たることを、保證すべき鐵案と申さねばならぬ。
 かくて西暦十七世紀の半頃から十八世紀を經て、十九世紀の半過ぎまで、約二百餘年の間に亙つた、景教碑に關する疑惑の暗雲が次第に晴れて、最近五六十年來、かかる懷疑的學者が殆ど跡を絶つた。これと共に、景教碑の保護保存といふ問題が、次第に擡頭して來た。已に西暦千八百五十二年に、米國のサリスブリ(Salisbury)教授は、「西安のネストル教碑の眞僞について」と題する一論文を公にして、その中に、景教碑が明末清初の際に、キリスト教の宣教師によつて歐洲に紹介されて以來、今日まで二百年の間、一人も親しくこの碑を覩た人がない。從つてこの碑は目下如何なる状態にあるかは勿論不明で、碑が果して今日に現存するや否やすら不確である。今日の急務は、中立公平の人を派して、親しく西安に往きて、この碑の存否と眞贋とを檢査せしむるに在る。このことの實行される迄は、景教碑の眞贋に關する絶對的斷案は下し難いと述べて居る(35)。
 サリスブリ教授の主張は、アメリカ東洋協會の容るる所となつた。千八百五十二年十月に、同協會は次の如き決議をした(36)。
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所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその眞僞に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以來、一個の歐人もこの碑を親覩せざる故、我が協會は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適當と信ずる方法によつて、この古碑を調べ、その現状を詳にし、新にその拓本をとり、之を學界に寄與せんことを熱望する。
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この決議書は在支那の米國各宣教師の手許に發送されたが、その實行は可なり困難であつた。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以來、宣教師は支那内地に踏み入ることが出來なかつたからである。然るに千八百六十年の北京條約によつて、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、歐米人の内地旅行が、やや自由になつてから、千八百六十六年に、英國のウイリアムソン(Williamson)とリース(Lees)の二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。當時の實況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兔も角も十數年前のアメリカ東洋協會の決議の主意は、この二英國人によつて、始めて實行された譯である。
 明末に景教碑が發掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廢※[#「土+己」、第3水準1−15−36]した。咸豐九年(西暦一八五九)に韓泰崋《カンタイクワ》といふ者が、訪碑の機會に、重ねて碑亭を建ててこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の來觀した時には、その碑亭が依然儼存して居つたといふ(37)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亙るマホメット教徒の大騷亂が起つて、西安の金勝寺もこの時燒き拂はれたから、碑亭も恐らく同樣の運命に罹つたものと想はれる。兔に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理學者リヒトホーフェン(Richthofen)が、金勝寺の景教碑を來觀した時には、已に碑亭の跡形もなくなつて居つた(38)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縱横の間に、風雨の剥蝕に放任するといふ有樣で、尠からず心ある歐米人を憂慮せしめた。殊に英國では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォア(Balfour)やラクーペリ(Lacouperie)の如き學者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英國の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英國博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(39)。中にもスティヴンソン(Stevenson)といふ支那在住の宣教師は、實地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手嚴しい書を寄せて居る(40)。
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世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の儘に、自然の破壞と人爲の毀損とに對して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、實に十九世紀の大恥辱といはねばならぬ。吾人はわが當局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英國博物館に轉交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる樣盡力せんことを、衷心より希望する。若しこの計畫が實行し難いならば、在北京の外交團諸君の盡力により、支那官憲に勸めて、責ては一の碑亭を建てて、この碑の保護を圖る樣にさせたい。今日に當りて何等か適當な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廢※[#「土+己」、第3水準1−15−36]するに至るであらう。
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 多分この氣運に刺戟されて、支那在住の英國人を中心として上海に組織された、皇立アジア協會支部(China Branch of Royal Asiatic Society)でも景教碑保護を決議し、且つその具體的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュース(Hughes)から、北京の外國公使團の主席のドイツ公使ブランド(Brandt)宛に、外交團の盡力によつて、景教碑の保護を支那政府に勸告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは總理衙門にも、また慶親王以下の軍機處の王大臣にも、アジア協會支部の希望を傳達した(41)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになつた。碑亭の建設費として銀百兩支出されたといふが、例の支那官場特有の中飽の爲、千八百九十一年に出來上つた碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝の状態となつた。ベルリンのフォルケ(Forke)教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかつたというて居る(42)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往觀した頃まで、依然同一の状態に在つた。
 私は明治四十年の秋に、宇野文學士――今の東京帝國大學教授文學博士宇野哲人君――と同伴で、洛關の遊歴を試みることになり、歳の九月三日に北京を出發し、長驛短亭の間に半個月を過ごし、月の十九日に西安に入り、越えて七日、九月の二十六日に、金勝寺に出掛けて景教碑を實檢した。
 金勝寺は西安の西郭外約三支那里の處にある。寺は同治年間のマホメット教徒の亂に、兵燹に罹つて、今は實に荒廢を極めて居る。併し境内は流石に廣く、南北二町半、東西一町半の間、頽墻斷續といふ有樣で、幾分往昔の面影を偲ばしめる。今の佛殿は兵燹後の再建で、見る影もないが、その後庭には、もと本殿の在つた所と見え、廢磚殘甓累々たる間に、明の萬暦十二年(西暦一五八四)に建てた、精巧な一架の石坊が遺つて、祇園眞境と題してある。その前面に明の成化・嘉靖頃の碑石三四方、何れも寺の由來を誌したものがある。石坊の後すなはち北方約半町ばかりに、隴畝の間に五方の石碑が並立して居るが、東より第二番目がいはゆる景教碑である。その他は大抵乾隆以後の建立で、やはり寺の由來を誌したものが多い。景教碑には碑亭がない。自然人爲の迫害に對して、全然無坊禦である。この碑を世界無二の至寶と尊重しゐる歐米人が、かかる現状を見れば、碑の將來に就いて心を傷め、果ては之をその本國に移して保護を加へたいと騷ぐのも、強ち無理でないと思はれた。
 私は景教碑探望の翌々日に、咸陽・乾州・醴泉方面に、約一週間程旅行して、十月四日の午後、西安に歸着する時、西郭で十數の苦力が、一大龜趺を城内に運び行くのに出遇つた。歸途を急いだ故、別に問ひ質しもせず、その儘寓居に歸着した。所がその當夜西安在住の日本教習の話に、近頃一洋人が、金勝寺内の景教碑を三千兩に買收して、之をロンドンの博物館に賣り込む計畫に着手したのを、巡撫が聞き知つて大いに驚き、俄に景教碑を碑林に移し、その拓本をとるすら、官憲の許可を要するなど、警戒頗る嚴重を加へたと聞いて、途中で目撃した龜趺は、その古さといひ、その大きさといひ、必ず金勝寺の景教碑のそれならんと思ひ當るまま、越えて十月六日の朝、碑林に出掛けて調査すると、果して事實で、景教碑は碑林中に据ゑ付け最中であつた。私は兔に角千年來の所在地であつた、西安と景教碑との因縁のまだ銷盡せないのと、また景教碑が碑林に移されて、支那官憲の保護を受くることになつた結着に滿足して歸寓した。
 私は十月九日に西安を出發して歸途に就
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