大秦景教流行中國碑に就いて
桑原隲藏

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(例)〔Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 438−441 (Graf Sze'chenyis Ostasiatische Reise. Bd. II).〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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私は明治四十三年四月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中國碑』といふ論文を發表した。そののち大正十二年の六月に、景教碑の模型の京都帝國大學到着を記念すべく開かれた史學研究會で、「大秦景教流行中國碑に就きて」と題する講演をした。茲に掲ぐる論文は、さきの論文と講演とを一纏めにして、新に作つたものである。
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 茲に紹介する景教碑、詳しくいへば大秦景教流行中國碑は、唐時代に建設されたもので、その當時支那に流行した、キリスト教の一派のネストル(Nestor)教に關する古碑で、今日猶ほ支那の陝西省の西安府(民國の關中道長安縣)に現存して居る。ネストル教は、支那で普通に景教と稱せられたが、又ミシア(Missiah 救世主の意味)教とも稱せられた。支那の記録にはミシアといふ言葉に、彌尸訶(『貞元新定釋教目録』)、彌施訶(大秦景教流行中國碑)または彌失訶(『佛祖歴代通載』)などの漢字を充てて居る。支那にはこの景教碑の外に、マホメット教に關する古碑もある。ユダヤ教に關する古碑もある。されどこの景教碑は、年代の古い點から觀ても、内容の豐富なる點から觀ても、文章や文字の優秀な點から觀ても、すべての點に於て、マホメット教關係の古碑や、ユダヤ教關係の古碑に卓越して居る。
 兔に角古代のキリスト教關係の古碑といふので、早くから世界の注意を惹き、あらゆる支那の古碑中でも、一番世界的に有名となつて居る。明末に發掘されて以來、今日までこの古碑の歴史や解釋に關する著書や論文は、殆ど汗牛充棟といふ有樣で、歐米方面の文獻は、大略ヘレル(Heller)の『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り(1)、コルヂエ(Cordier)の『支那書史』には、一層網羅されて居る(2)。支那方面の文獻は、清の楊榮※[#「金+志」、387−1]の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリ(Wylie)の「西安府のネストル教碑」といふ論文中に備つて居る(3)。かく關係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證據と思ふ。
 抑※[#二の字点、1−2−22]景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウス(Nestorius)の唱へ出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一體に關して、新しい見解を主張した。彼の主張に據ると、キリストは神性を具へた一個の人間に過ぎぬ。從つてキリストの母のマリアを、從來の如く Theotokos(神の母)と稱するのを排して、Christotokos(キリストの母)と稱すべしと主張する(4)。西暦四百三十一年に開かれた、エフェスス(Ephesus)の宗教會議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西アジア地方に流行し、ついで中央アジアにも傳播した(5)。唐が支那を統一して後ち、塞外經略に手を着け、その國威が西域に振ふと、その太宗の貞觀九年(西暦六三五)に、阿羅本といふ者が始めて景教を支那に傳へた。爾來景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に當る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、當時の國都長安に在つた、大秦寺と稱するネストル教の寺院の僧の景淨、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舍城、即ちバルク(Balkh)から來て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)といふ人の出資によつて、この記念碑を建て(6)、ネストル教の教義や、その支那傳來の歴史を書き誌したものである。
 碑は黒色の石灰石より成り、その高さは臺の龜趺を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチといふ。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が刻されてある。漢字の外にエストランゲロ(Estrangelo)と呼ばれる、當時主として傳道の場合に使用された、古體のシリア文字が若干刻されてある。このシリア文字は、大體に於て景教に關係ある僧侶約七十人の名を記したもので、その大部分には之に相當する漢名を添へてある。
 碑に刻された漢文の解釋は、可なり六ヶ敷い。今から二十餘年前に、上海在住のジェスイット派の宣教師のアヴレ(Havret)が公にした碑文の解釋は、尤も傑出して居るが(7)、それは未完成でもあり、又不十分の點がないでもない。併し大體から見渡して、この碑文の内容は、次の如き四段の順序になつて居る。
(第一) 天地創成のこと、原人が罪の人となる次第、及びキリストの降誕を述べたもの。
(第二) 唐の太宗の時、阿羅本が景教の經像を齎らして長安に來朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建てて、僧二十一人を度せしこと、次の高宗は天下の諸地方に景教の寺院を増置したこと、則天武后時代から睿宗時代にかけて、景教の法運やや不振に陷つたこと、玄宗時代に景教は再び唐室の保護を受けて、法運振興したこと、次の肅宗・代宗・徳宗三代を通じて、法運の益※[#二の字点、1−2−22]隆昌したことを記したもの。
(第三) この記念碑建設の費用を喜捨した、伊斯の徳行を敍したもの。
(第四) 韻文で上來三段の記事と、略同樣のことを頌したもの。
されど碑文の解釋は、今日の講演の目的でない。今日の講演の目的は、景教碑の來歴を紹介するに在る。
 さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に當る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する餘り、佛教を始め諸外教に對して激烈な壓制を加へ、その會昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアスター(Zarathustra)教(※[#「示+天」、第3水準1−89−22]教)の僧侶を併せて、二千餘人或は三千餘人を還俗せしめ、外國出身の僧侶は、多くその本國へ送還させた。多分この時に、義寧坊に在つた大秦寺も廢毀せられ、その境内に建立された筈の景教碑も打ち倒されたものかと想ふ。勿論當時の記録に、景教碑の打ち倒された事實や年代が明記されてはないが、しかく想像するより外に、適當な解釋を下すことが出來ぬのである。支那では通例古碑の刻字は、天然や人爲の種々の事由によつて、磨滅毀損を受ける筈であるが、この景教碑のみは、不思議に碑面の字畫に格別の損滅がない。こはこの碑の建立後、久しからずして地下に埋沒して、天然や人爲の損滅から保護された結果と認められ、上述の想像の蓋然性を裏書する樣である。兔に角宋・元時代の記録を通じて、この景教碑のことが一切見當らぬ。
 所が明末になつて、西暦十七世紀の初半に、偶然の出來事で、この景教碑が土中から發掘されて、世間に現はれて來た。この古碑出土の状況を、尤も早く尤も詳しく世間に通告した、セメド(Semedo)といふ宣教師の作つた『支那通史』には、大要左の如く記載してある(8)。
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千六百二十五年(明の天啓五年)に、陝西省の首府の西安府の附近で、支那職工達が建物を新築する爲に、礎石を置く目的で、地面を掘り下げた。所が彼等は{偶然}一石碑を掘り當てた。{碑の}長さは九empan(手尺)以上、寛さは四 empan 以上、厚さは一 empan 以上に及ぶ。碑の頭部に當るべき一端は、ピラミッド形をなして居る。ピラミッドの寛さは、底部で一empan 以上、高さは二 empan 以上あつて、その表面に見事なる十字架が刻まれて、その形は{印度の}メリアプォル(Meliapor)町に在る、聖トーマス(St. Thomas)の墓の彫刻のそれによく類似して居る。十字架は雲形{の彫刻}に圍まれ、その下層には三行に、各行三個の大漢字が刻まれてある。この漢字は支那に一般に通用のもので、極めて明瞭に刻まれてある。碑の全面にも同種類の文字が刻まれ、則面にも文字は刻まれてあるが、それは種類の異つた外國字で、誰人も讀むことが出來ぬ。
この注意すべき古碑が出土すると、職工達は直にその由を官衙に上申した。知府が現場に出馬して、古碑を檢閲した後ち、之を見事な土臺の上に安置し、風雨の迫害を保護し、同時に諸人の觀覽を自由にすべく、碑の上に碑亭を構へた。珍奇な古碑の出土の評判が四方に擴まると、その古碑を見物すべく、澤山の人々が雲集した。丁度この頃は、キリスト教が可なり支那人の間に知られて居つたから、{キリスト教に關する若干の知識を有する}さる紳士は、この古碑を見て、キリスト教に關係あるものと推測して、{浙江省の}杭州府に在住する彼の友人で、教名を Leo{n}といふ、キリスト教信者の官吏の手許へ、その碑拓一枚を送り屆けた。この碑拓は、當時杭州府在住の宣教師達に、想像以上の大なる歡喜を齎らした。
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 このセメドは漢名を魯徳照といふ。彼は西暦千六百二十八年に西安に出掛け、實地に就いて熱心に景教碑を研究した人である。當時支那在留の宣教師の中で、トリゴオルト(Nicholas Trigault 金尼閣)を除けば、尤も早く景教碑の實物を親覩した人であるから信用も厚く、從つて歐米の學界では、景教碑出土の状況に關しては、セメドの記事が權威と認められて、これに異議を挾む者が尠い。されどセメドの記事以外に、この古碑の出土の場所や事情や年代に就いて、異説がないでもない。出土の事情の異同は些事で、格別考慮するに足らぬが、場所や年代の異同は、一應の査覈を要する。先づ出土年代に關しては、セメドの所傳以外に、少くとも左の三異説がある。
(第一) 清初の錢謙益の景教考(『牧齋有學集』卷四十四所收)――多くの學者はワイリやアヴレさへも、この錢謙益を錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]と間違へて居る――には、明の萬暦年間(西暦一五七三年乃至一六二〇年)に、長安の住民が地を鋤く間に、偶然この碑を發掘したと記してある(9)。
(第二) 清初の林※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]の『來齋金石考略』卷下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を發見したと傳へて居る。
(第三) 明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の發掘の次第を述べて、
  大明天啓三年(西暦一六二三)關中官命啓[#レ]土。于[#二]敗墻下[#一]獲[#レ]之。
と記してある。
 以上三説の中、第一第二の所傳は、年代も漠然で、採るに足らぬが、獨り第三の陽瑪諾の所傳のみは、幾分の注意を價する。陽瑪諾は洋名をディアズ(Emmanuel Diaz)といひ、景教碑出土の當時、浙江省杭州府に居つて、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釋して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑はれるが、併し當時耶蘇會の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允[#レ]付[#レ]梓
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