ニあつて、實際この『唐景教碑頌正詮』――私の手許にあるのは、光緒四年の重鐫ではあるが――も、陽瑪諾の同會のフェルレーラ(Gaspar Ferreira 費奇規)、アレニ(Julius Aleni 艾儒略)、モンテーロ(Johannes Monteiro 孟儒望)の訂閲を經て出版したもので、容易に差誤あるべしとは思はれぬ。
 尚ほ又明の李之藻の「讀景教碑書後」といふ一篇がある。こは『唐景教碑頌正詮』の中にも、『方外焚書』などの中にも載せられて居る。この李之藻は、かの有名なる徐光啓と相並んで、當時の耶蘇信徒中の大立者であつた。彼の教名を Leon といひ、當時の洋人の記録には、Leon Li として知られて居る。上に紹介したセメドの記事に、杭州府在住の官吏で教名 Leo{n}とあるのは、即ちこの李之藻である。彼の讀景教碑書後に、
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廬[#二]居靈竺間[#一](杭州府の靈隱寺と天竺寺をいふ)。岐陽同志張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞惠[#二]寄唐碑一幅[#一]。曰|邇者《チカゴロ》長安中掘[#レ]地所[#レ]得。名曰[#二]景教流行中國碑頌[#一]。此教未[#二]之前聞[#一]。其即利氏西泰(利馬竇)所[#レ]傳聖教乎。余讀[#レ]之良然。
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と書いてある。
 この張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞は教名を Paul といひ、洋人の記録には普通に Paul Tshang として知られて居る。岐陽の産といへば、陝西省鳳翔府管下の人と見える。彼はその以前に、北京で利馬竇にも面會して、キリスト教に就いての智識をもつて居つた。景教碑出土の噂が四方に傳ると、彼は親しく西安に出掛けて、この古碑を檢閲した。當時陝西には一人の宣教師も滯在せなかつた故、彼はキリスト教に關係ある人々の中で、尤も早く景教碑の實物を親覩した人である。セメドの『支那通史』の記事中に見える、キリスト教に關する智識を有する或る紳士とは、畢竟この張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞を指すのである。張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞は已に紹介せる如く、景教碑の拓本をとつて、杭州府の李之藻の手許に寄送した。李之藻の讀景教碑書後の終末に、
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天啓五年歳在[#二]※[#「旗−其+冉」、392−10]蒙赤奮若[#一]。日纏參初度。涼菴居士李我存。盥手謹識。
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とあるから、この文は天啓五年(西暦一六二五)乙丑の歳の陰暦四月十六日(陽暦の五月二十一日)に書かれたこと疑を容れぬ(10)。
 さて鳳翔府と杭州府とは、相距ること約三千五百支那里である。支那の如き交通や報道の機關の不十分な状態の下に、張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞が態※[#二の字点、1−2−22]西安に出掛けて、景教碑の拓本を手にしたのは、勿論その碑の出土後、相當の時日を經過したこと申す迄もない。その拓本を水陸三千幾百里を隔つる杭州府まで送寄するには、必ず多大の時日を要する。現にセメドは、西安杭州間を一ヶ月半の行程と記して居る。然もその拓本の杭州に到着したのは、天啓五年の四月であつた。此等の事情を綜合して考一考すると、景教碑の出土は、後くも天啓五年の早春か、若くばその一二年以前かも知れぬ。從つて陽瑪諾の天啓三年説も、一概に否定し難い樣に思ふ。併しこは重大なる問題で、輕々には論斷を下し難い。私は單に一つの疑問といふに止める。序ながら私がこの疑問を『藝文』に發表した數年の後ち、さきに紹介した宣教師のアヴレの『西安府のキリスト教碑』を閲讀した所が、アヴレも亦この點に就いては、私と略所見を同くせることを發見して(11)、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
 次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に※。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英國の宣教師のモウル(Moule)や(13)、我が佐伯好郎氏なども(14)、同樣にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思ふ。左に簡單にその理由を述べる。
(第一) この景教碑文を作つた大秦寺の僧景淨は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舍城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある(15)。景淨やイザドブジドの關係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在つた大秦寺の境内に建設されたもので、※[#「(幸+攵)/皿」、393−15]※[#「厂+至」、393−15]地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二) 唐時代に※[#「(幸+攵)/皿」、393−16]※[#「厂+至」、393−16]地方に、大秦寺の存在したといふ何等の證據がない。その※[#「(幸+攵)/皿」、393−16]※[#「厂+至」、393−16]地方に、景教碑の建設される筈がないではないか。
(第三) もと長安に建設された景教碑が、ある時代に※[#「(幸+攵)/皿」、394−1]※[#「厂+至」、394−1]に移轉されたとは、到底考へられない。又かかる移轉説を可能ならしむる、何等の證據も理由もない。
(第四) 景教碑を尤も早く親覩した張※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]虞もセメドも、皆景教碑は長安若くば長安附近から出土したものと明記して、※[#「(幸+攵)/皿」、394−4]※[#「厂+至」、394−4]の出土を傳へて居らぬ。
(第五) 景教碑の發掘された、又同時に安置された西安の西郊の金勝寺は、學者の研究によると、正しく唐代に大秦寺のあつた、長安の義寧坊の舊址に當る(16)。
(第六) 景教碑が※[#「(幸+攵)/皿」、394−7]※[#「厂+至」、394−7]地方から出土する譯は、萬々有り得べからざることであるが、假に一部の人達の信ずる如く※[#「(幸+攵)/皿」、394−7]※[#「厂+至」、394−7]で發掘されて、西安に移轉されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであらうか。今日の金勝寺は、大體に於て唐代の大秦寺の所在地に該當するが、そは學者の研究を待つて始めて知られたことで、明末一般の人々が、かかる智識を有する筈がない。漫然移轉された景教碑が、唐代の大秦寺の舊址に安置される結果となつたとは、餘りに不思議ではあるまいか。
 要するに此等の事情は、景教碑の※[#「(幸+攵)/皿」、394−12]※[#「厂+至」、394−12]出土説を不可能ならしめ、その反對に、長安出土説の確實を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその當初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋沒し、その大秦寺の舊址に當る、西安の西郊の金勝寺の境内から發掘され、大體に於て終始その位置を移動せざりしものと斷定する外ない(17)。
 さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋譯が出來た。最初に出來たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇會士の手に成つたラテン譯である。こは多分トリゴオルトの譯であらうといふ(18)。その後引續いて幾多の譯文が世に公にされた。イタリーのバルトリに據ると、西暦千六百六十二年頃までに、少くとも三ヶ國の言葉で書かれた八種の飜譯が公にされたといふ(19)。中に就いて尤も廣く世間に影響したのは、セメドの飜譯と、ボイム(Michel Boym 卜彌格)の飜譯とであらう。
 セメドは西暦千六百二十八年に、西安で景教碑を親覩した後ち、千六百三十七年に、澳門《マカオ》から一旦歐洲に歸り、千六百四十年にポルトガルに到着した。彼の有名な『支那通史』は、千六百四十一年にマドリッドでポルトガル語で出版された。その中に彼は景教碑の實際に就いて、より正確な報道を傳へ、併せてこの碑の譯文を附載してある。この書は間もなくスペイン語・イタリー語・フランス語・英語に譯出されて、廣く世界に讀まれた(20)。その後ち約十年を經て、ボイムは明の使命を帶び、千六百五十一年の初に澳門を出發し、その翌五十二年の末にイタリーに着した。この時彼がローマ教皇に奉呈した明の國書は、今日猶ほ教皇廰に保存されて居る(21)。ボイムはそのローマ滯在中に、千六百五十三年に、その齎らし往いた景教碑の拓本について、當時ローマに在住して居つた、教名をアンドレアス(Andreas)、マテウス(Matthaeus)といふ二人の支那人の助力を得て、碑の漢文をラテン語に譯出した(22)。かのキルヘルス(Kircherus)の『支那畫報』に收載されてある、景教碑の譯文は即ちこれである。
 景教碑が歐洲に紹介されると、早くその當時から碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者があつた(23)。碑文の廣く知らるるに從ひ、之に對する一部の學者の疑惑は益※[#二の字点、1−2−22]深く、中にもフランスのヴォルテール(Voltaire)の如きは、全くジェスイット派の宣教師達の僞作であるとて、手嚴しい非難を加へて居る。十九世紀に入ると、ドイツのノイマン(Neumann, 1850)や、フランスのルナン(Renan, 1855)、ジュリアン(Stanislas Julien, 1855)の如き(24)、有力な東洋學者が、景教碑に關する疑惑を發表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに關する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協會時報』に掲載して居る(25)。
 之に對して景教碑の辯護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、フランスのポオチエ(Pauthier, 1857)と(26)、英國のワイリ(Wylie, 1854)とである(27)。ポーチエの論文は、ノイマン、ルナン、ジュリアン諸氏の疑惑に對して、有力な辯駁を加へて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論爭的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜譯に添へて、彼の豐富なる支那學の智識を傾倒して、支那の金石學者の所説を利用して、この碑の僞造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石學者、例へば顧炎武とか、錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]とか、王昶とかいふ人達の、この碑に關する考證を紹介し、支那の學者は一人も、この碑の眞物たることを疑ふ者がないといふ事實を指摘して居る。ワイリより三十年餘り後に、オクスフォード(Oxford)大學のレッグ(Legge)も、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の學者も、この碑の僞物たることを明言したる者がないというて居る(28)。
 されど比較的近代の支那の學者の中には、景教碑の僞作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、錢潤道の如きも、その一人で、
  此碑宋人金石書未[#二]著録[#一]。……似[#三]明人僞撰、託爲[#二]明時出[#一レ]土。
というて居る。また『皇朝經世文編初續』中に收めてある、闕名氏の「天主邪教入中國攷」にも、
  且僞[#二]造大秦景教流行碑[#一]。……埋[#二]西安府城外[#一]、佯掘[#レ]之。以證[#二]其教由來之久[#一]。
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那學者の多數は、この碑の當時の眞物たることを疑はぬ。ワイリ、レッグ二人の言ふ所も、先づ正當と認めてよい。
 しかし今日では、景教碑の眞僞などは最早問題でない。この碑の眞物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)[#「(一)」は縦中横]この碑文の書體は、明かに唐時代のもので、明時代に僞作されたものでない。
(二)[#「(二)」は縦中横]この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞觀十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違へずに、その儘『唐會要』卷四十九に載せられて居る。明末のキリスト教關係の人々が、『唐會要』の記事によつて、
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