ること三千五百里――『元和郡縣志』に據ると三千五百三十里――で約一ヶ月半の路程に當る。現に前年の遣唐大使藤原葛野麻呂の一行は、二月十日(若しくば十一日)に長安を發して、三月二十九日に越州に到着した。その間に四十八九日を費して居る。大師も三四月の交に、越州附近まで歸來せらるるには、二月中旬後くもその二十日頃までに、長安を出發する必要がある。されば大師の住唐は滿二年といふ條、その實長安に於ける留學期は、一年二ヶ月に滿たぬ。元來大師は二十年間も支那に留學さるべき大望を懷かれて居つたに拘らず、僅に一年有餘にして歸朝の途に就かれた第一の大原因は、恩師惠果阿闍梨の遺託を重んじ、一日も早く眞言の密教を、故國の日本に傳播せん爲と推測すべきであらう。恩師の埋葬事終つて、約一ヶ月間に長安を引き拂はれた事實は、尤も雄辯にこの推測を裏書するかと思ふ。かくて大師は往時と同一の驛路を、反對に杭州に下り、杭州から越州に往き、越州・明州の間に數ヶ月滯留の上、その年の八月に遣唐判官高階眞人遠成の一行に加はり、明州より出帆して、十月に歸朝されたのである。
(七)結語
大師入唐の事蹟は略述べ盡したから、最早
前へ
次へ
全70ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング