の前後に長安に出掛けた人々が尠くないが、誰も石佛寺の現状を審にせぬ樣である。{その後大正十三年の夏に、眞言宗の青年僧侶の和田辨瑞君が、私のこの論文に刺戟され、態※[#二の字点、1−2−22]長安に出掛けて青龍寺の舊蹟を踏査し、石佛寺――今は祭台村の小學堂になつて居る――の現状を始めて傳へられた。大正十四年二月發行の『新興』といふ雜誌に、その大要が紹介されて居る。近頃、大正十四年九月の『宗教研究』に、常盤大定博士が、石佛寺を青龍寺の舊蹟とする説を否定されたとか仄聞したが、不幸にして未だ寓目の機を得ぬ。私は今日でも石佛寺を青龍寺の遺址とする説を信頼して居る。何れ常盤博士の論文を閲讀した上で、それに對する批判を學界に公表したいと思ふ。} 
 さて大師はこの年の六月十三日に、始めて惠果阿闍梨に就いてから、二ヶ月を經たその八月には、早くも傳法阿闍梨位の灌頂を受けらるることになつた。私はさきに申述べた通り、眞言の教義には全く不案内であるが、かかる短日月にして、かかる名譽ある灌頂を受けることは、極めて異常のことと思ふ。經範の『大師御行状集記』に、この時玉堂寺の僧珍賀といふ者が、再三この傳法に不平を唱
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