大師は青龍寺の惠果阿闍梨に晉謁して、遂に同阿闍梨より、眞言宗を傳授さるることとなつた。青龍寺は西明寺とは反對に、左街の東邊の新昌坊の南門の東に在つた。土地は高く、展望は廣い。北宋の錢易の『南部新書』戊に、
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長安戲場多集[#二]于慈恩[#一]、小者在[#二]青龍[#一]、其次薦福・永壽。
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とあれば、可なり群衆の雜沓した場所らしい。大師がこの寺で密教を傳へられた關係から、爾來我が入唐の大徳は、慈覺大師でも智證大師でも、みな青龍寺に留錫するといふ風に、我が國の佛教と關係の尤も深い寺である。この寺も武宗の時、一旦は廢絶されたが、一年ならずして再興せられ、格別の迫害を受けずに、法運を維持することが出來た。『咸寧縣志』卷十二に、
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石佛寺即唐青龍寺、在[#二]祭台村[#一]。
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とあれば、青龍寺は後に石佛寺と名を變へて、嘉慶時代まで存在したものと見える。祭台村は今の長安縣の西南郊外、我が一里強に當る。私は長安へ出掛けた時分に、未だこの事實を承知せなかつた爲め、石佛寺を探訪せず、今日まで遺憾千萬に思ふ。私
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