水準1−89−22])との寺院を總べて、三夷寺と稱して居る。かく區別する時は、胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]はゾロアスター教に限つて、マニ教を含まぬ筈である。されどマニ教も、※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教(ゾロアスター教)も、等しくペルシアに行はれ、また等しく明暗の二宗を説けば、宗教の内容などに不注意勝な支那の學者は、時にマニ教をも胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]の中に混同したかも知れぬ。
 要するに『兩京新記』に據ると、西暦八世紀の半頃に、長安に景教の寺もあり、又※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教の寺もあつた。ただマニ教の寺の有無はやや不確であるが、恐らく洛陽と同樣に長安にも存在したことと想像される。玄宗の孫の代宗の時代になると、囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]人が多く長安に來往し、これら囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]人がマニ教に歸依したから、自然長安に大雲光明寺といふマニ教の寺が建立された(『資治通鑑』唐紀五十三)。大師の長安に到着された頃には、長安にマニ教の寺院の存在したこ
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