と勿論である。此等諸外教のことに就いては、さきに紹介した榊博士の講演を參考されたく、更に唐代のネストル教に關しては、アヴレ(Havret)氏の著書があり、マニ教に關しては、シャヴァンヌ(Chavannes)及びペリオ(Pelliot)二氏合著の論文があるから、此等の著書や論文を參考あれば、一層結構と思ふ。
 今の長安縣の學習巷の清眞寺内に、玄宗の天寶元年(西暦七四二)に建設されたと傳へらるる創建清眞寺碑が現存して居る。この碑を信憑するならば、大師入唐の頃には、長安に上述の三夷寺以外に、更にイスラム教(囘教)の寺院もあつた筈である。されどこの碑は、私が嘗つて證明した如く(明治四十五年七月の『藝文』參看)、明代の僞作であるから、是に由つて當時長安に囘教の寺院の存在を確認することが出來ぬ。ただ大師入唐の頃イスラム教徒が、商業上や政治上の目的で、尠からず長安に往來したことは事實である。

     (六)長安に於ける大師

 大師が我が遣唐大使藤原葛野麻呂の一行に加つて、長安に到着された當初は、その一行と共に、支那政府から指定された宣陽坊の官宅に宿泊された。普通ならば皇城内の鴻臚寺の客館にでも
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