、第3水準1−89−22]祠とあるのもやや曖昧である。『兩京新記』の本文を見ると、右街の布政坊にある胡天祠は、高祖の武徳四年(西暦六二一)に、西域の胡天神を祀る爲に建てたといふ。『佛祖統記』卷三十九に據ると、波斯人拂多誕――フランスのゴーチオ(Gauthiot)氏は拂多誕とはペールヴイ語(中古のイラン語)で、法師の意味をもつフルスタダーン(〔fura※[#キャロン付きS小文字、1−10−18]tada^n〕)といふ言葉の音譯で、固有名詞であるまいといふ――が始めて唐にマニ教を傳來したのは、武后の延載元年(西暦六九四)であるから、その七十年前に建立された、この布政坊の胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠は、勿論ゾロアスター教のものと認めねばならぬ。大師の入唐より約二十年後に作られた、舒元輿の唐鄂州永興縣(今の湖北省江漢道陽新縣)重巖寺碑銘(『全唐文』卷七百二十七)に、當時支那國内に行はれた、外來の三宗教の摩尼(末尼)と大秦(景教)と※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]神(胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]・火※[#「しめすへん+天」、第3
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