、右街は即ち右京に當る。左右兩街ともに、五十五坊と一市を有するから、京城内にすべて百十坊と二市を有する譯である。この坊數に就いては異説もあるが、茲にはしばらく『唐六典』に據つて置く。
大師の時代には、左街に興慶宮――或は南内ともいふ――が出來た爲、坊數は多少減少した。一體に左街には宮殿や苑囿が多く、又勳貴官吏らの邸宅多くて淋しい。之に反して右街は商賣の住居が多くして繁華であつた。坊と坊との間には、何れも我が四五十間幅の道路があつた。四辻の場所には、我が交番所に比すべき武候鋪といふのが設置され、そこに派遣されて居る邏卒が、城内の警察を掌つた。誠に規模堂々たるもので、この時代に於ける世界の尤も立派な大都會であつたと思ふ。我が平城・平安の二京の整然たる設計は、長安のそれを模倣したこと申す迄もない。
長安はただにその外形に於て世界の大都會たるに止らず、その内容に於ても亦實に世界有數の大都會であつた。支那の文化は唐を絶頂といたし、唐の文化は長安を中心とする。大師の入唐は、唐の文化の最盛期ともいふべき、玄宗の天寶時代を距ること五十餘年で、唐の國運こそ漸く傾いたけれど、その文化と豪華とは、未だ少
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