せ、その案内にて、行列を正して長安城に入つたのである。『高野大師御廣傳』上に、當時の有樣を記して、
[#ここから2字下げ]
給[#二]大使[#一]以[#二]七珍鞍[#一]。次使等給[#二]粧鞍[#一]。十二月二十三日、到[#二]上都長安城[#一]。(中略)入[#二]京華[#一]之儀、不[#レ]可[#二]記盡[#一]。見者滿[#二]遐邇[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とあるを併せて參考すべきである。長安の東面には、北・中央・南の三城門が開けてあるが、大師は當然中央の春明門から入城された。かくて延暦二十三年即ち唐の徳宗の貞元二十年十二月の二十三日に、大師は年來渇仰されて居つた長安に到着されたのである。その滿足の程、推察に餘りありと思ふ。
(五)唐代の長安
唐時代の長安の位置を研究すべき材料は、唐宋以來その書に乏しくない。但し多くは舊記を羅列したのみで、實地の踏査や測量を忽にして居るから、參考の價値が甚だ少ない。中に就いて清の嘉慶年間編纂の『咸寧縣志』『長安縣志』に載する所の、唐代の京城の考證は尤も出色で、記録と實地を併せ考へ、古今の對照やや眞を得たるに庶幾《ちか》い。
前へ
次へ
全70ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング