國等と稱して、彼等自身の優秀を誇り、高く標置して居つた。當時謂ふ所の中國若くば中夏とは、今の河南・山東の大部、直隷・山西の南部、陝西の一部に過ぎぬ。彼等はこの以外の國若くば人を、戎狄若くば蠻夷として擯斥もし輕侮もした。當時南支那に國して居つた荊楚・句呉・於越の諸王は、自らその蠻夷たることを認めて、鋭意北方の文化を輸入することを圖つたのである。
 春秋の末より戰國にかけて、支那の學術は勃興したが、その重なる學者は、殆ど皆北支那の産である。しばらく孔門の諸弟子に就いて之を觀ても、勿論魯人最も多く、衞人・齊人・宋人之に次ぐ、皆北支那の人である。呉・楚の産は僅々數輩に過ぎぬ。『史記』には子游を呉人と記してあるけれど、そは頗る疑はしい(2)。公孫龍・任不齊・秦商の三人は、或は楚人となす者もあるけれど、皆後世の説で、一層信憑するに足らぬ。この四人を除くと、濟々たる孔門の諸弟子中、殆ど一人も南支那の産はないのである。或は儒家の學を齊魯の學と稱へて、北方思想を代表するものとし、道家の學を荊楚の學と呼び、南方思想を代表するものとして、春秋戰國の交、早く已に南北支那の文化が相頡頏すべき状況にあつたかの如く
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