み、今の西安府(陝西)管下の平原へ來て、茲で彼等が中央アジアから將來した農耕を試むることとなつた。
 (3)渭水の流域を占領した後ち、漢族は成るべく山地を避けて、灌漑の便利ある平地を選びつつ、尤も農耕に適當した方面に發展して往つた。この結果として、彼等は自然下の如き二つの方向をとることとなつた。
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(a)彼等は一方では黄河を越えて、汾水の下流より山西方面に向うた。
(b)一方では彼等は黄河の流に沿うて、河南府(河南)附近の平原に出で、それから更に三方面に發展して往つた。その一は懷慶府(河南)を經て、黄河と太行山との間に沿うて北に進み、一つは伊水を溯つて、汝州(河南)南陽府(河南)を經て南に進み、一は東進して山東方面に出で、茲から北して黄河の下流地に發展し、又は南して淮水の流域から、次第に揚子江の下流に發展したことと思ふ。
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 漢族の原住地の問題はしばらく措き、古代の漢族が黄河流域の北支那を根據地として、發展して往つたことは、殆ど疑を容るる餘地がないのである。
 漢族は夙に自らその四隣の異族と區別して、夏と稱し、又は諸夏・中夏・華夏・中華・中
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