吾が輩はリチャルド(夏之時)氏の支那人の智的能力に關する左の所説に深き共鳴を感ずる。
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〔過去に於ける〕支那の教育組織は國民の記憶力を發達せしめた代りに、その判斷力やその推理力を萎縮せしめた。故に支那國民の智識は散漫で表面《うはつら》で、統一を缺き、又徹底して居らぬ。彼等は全然批判的精神をもたぬ。彼等は原因と結果との關係に就いての思慮が十分でなく、又事件の全體を達觀することが出來ぬ。彼等の個人的若くば團體的行動の間に、多量の淺慮と盲信とを認めることが出來る。
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此の所説を基礎として、支那の過去や現在を可なりよく了解することが出來るやうに思ふ。
 之に就いて憶ひ起されるのは支那の車夫である。現時は知らぬが、今から十年も以前に、北京や天津邊りを觀光した人は、誰も經驗する如く、支那の車夫は客を乘せると、その行先きを問ひ質さずに、自分勝手の方向に驀進する。若し、不幸にしてその乘客が土地不案内であると、まるで自分の目的とは反對の方向を引き廻され、車夫も無駄骨折をすることが稀でなかつた。同樣の缺陷が支那の學者に着き纏うて、彼等の研究は常に批判が十分でな
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