その儘であるといふ一證據を提供したに過ぎぬ。
無職の窮民が多く、同時に警察の不行屆な支那では、古來土匪や流賊が多い。必ずしも山東の一角に限らぬ。支那政府は少し手剛い土匪や流賊等に對しては、多くの場合、之を退治するよりは先づ之と妥協する。即ち利禄と官職とを以て彼等を誘ふのである。支那の記録にはこの妥協に誘ふことを招安といひ、この妥協に應ずることを歸順といふ。招安とか歸順とか文字は立派であるが、その内實は政府は征伐の危險を避ける爲め賊徒は利禄の安全を得る爲め、雙方妥協するに過ぎぬ。招安や歸順の實例は支那の何れの時代にも見出すことが出來る。それで宋時代から「欲[#レ]得[#レ]官。殺[#レ]人放[#レ]火。受[#二]招安[#一]」といふ諺があつた。放火殺人を行ひ、成るべく暴れ廻つて政府を手古摺らせ、然る後ち歸順に出掛けるのが、官吏となる出世法の一番の捷徑といふ意味である。隨分亂暴な諺だが、これが支那の實際である。現に臨城事件を起した土匪の如きも、政府を威嚇して招安に應じ、その六月十二日に首尾よく目的を達し、捕虜を解放すると交換に、一同軍隊に編入せられ、土肥の頭目は旅團長に、以下身分に應じて
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