B)。五代の後晉の末年に、契丹の手先となつて大梁に跋扈した張彦澤が後に死に處せられた時、市民は爭うて其腦を破ぶり其髓を取り、其肉を臠して之を食した(『五代史記』卷五十二、張彦澤傳)。張彦澤と略時代を同くして※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]の王延政がある。※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]主王審知の子で、※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]の最後の主君である。彼は建州を根據として居つたが、部下に在つた、福州兵の謀叛の噂を聞き、兵を伏せて福州兵八千人を殺し、その肉を脯として食料に供した(明の黄仲昭の『八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]通志』卷二十七參看)。當時王延政は格別食糧に窮して居らぬから、この擧は全く憎惡から出たものと解釋せなければならぬ。
 元の世祖時代に政權を握つた色目人に阿合馬がある。彼は諸方面の反感を買つたが、後にその罪惡が暴露して誅戮された時、かねて彼の專横を惡める人々は爭うてその肉を食した。同時代の鄭所南の『心史』に、
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軍民盡分[#二]臠阿合馬之肉[#一]而食。貧人亦莫[#レ]不[#二]典[#レ]衣歌飮相慶[#一]。燕市酒三日倶空。
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と記して居る。又明の武宗時代の宦者に劉瑾がある。所謂八虎の隨一で、隨分專横に振舞つた。後に罪を發かれて市に磔せられた時、諸人の彼を怨めるもの、一錢を以てその一臠を買ひ、之を生食したといふ(『皇明通紀』卷十)。
 要するに支那人の間に、罪人の肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふことは、一種の私刑として公認の姿となつて居る。怨まれたる、若くば惡まれたる罪人は、所定の公罰を受くるのみでなく、同時に民衆又は仇家に噬食されるといふ私刑を受けねばならぬ。此の如くにして Solayman のいふ所(※[#ローマ数字I、1−13−21])の、不忠者は斬罪に處せらるる上に、その肉は食ひ盡されることも、又 〔Abu^ Zayd〕 の傳へる所(※[#ローマ数字III、1−13−23])の姦通、泥棒、殺人等、民衆の怨を買ふべき性質の罪人は、所定の公罰を受けた後ち、更に民衆の爲に食ひ盡されることも、大體に於て事實を得たものである。但 〔Abu^ Zayd〕 の此等の罪人が、一律に死刑に處せられるといふ點は、一考を要すると思ふ。殺人罪を犯す者の死刑に處せら
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