W7−52]而漆[#レ]之。以付[#二]武庫[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽公主は梁の武帝の孫女であるが、侯景の婦となつたから、衆怒に觸れて食肉されたものと想ふ。
 王偉に就いては、『梁書』卷五十六に、
[#ここから2字下げ]
及[#下]囚[#二]送江陵[#一]。烹[#中]於市[#上]。百姓有[#下]遭[#二]其毒[#一]者[#上]。竝割炙食[#レ]之。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。
 隋唐以來も同一の事例が疊見して居る。君上の怒に觸れ、民衆の怨を買つた者の、※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食された場合が稀有でない。隋の煬帝は叛臣斛斯政を烹て、百官にその肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]はしめ(『資治通鑑』隋紀六、大業十年の條)、隋末關西に割據した薛擧の子薛仁杲は、有名なる文人※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]信の子※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]立を捕獲して、その降らざるを怒り、之を火上に磔し、その肉を割いて軍人に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]しめた(同上隋紀八、義寧元年の條)。同じく隋末に河北を寇掠した賊首張金※[#「禾+爾」、第4水準2−83−10]が、官軍に捕獲された時の光景は、『資治通鑑』隋紀七、大業十二年の條に、次の如く記載されて居る。
[#ここから2字下げ]
吏立[#二]木於市[#一]。懸[#二]其頭[#一]。張[#二]手足[#一]。令[#下]仇家割[#中]食之[#上]。未[#レ]死間。歌謳不[#レ]輟。
[#ここで字下げ終わり]
 唐の則天武后時代の酷吏に來俊臣がある。酷吏の代表として後世にまで聞えて居るが、この來俊臣が後に棄市せられた時、民衆は爭うてその肉を割食した。『資治通鑑』唐紀二十二、神功元年の條に、
[#ここから2字下げ]
仇家爭※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#二]{來}俊臣之肉[#一]。斯須而盡。抉[#レ]眼剥[#レ]面。披[#レ]腹出[#レ]心。騰※[#「足へん+(日/羽)」、第4水準2−89−44]成[#レ]泥。
[#ここで字下げ終わり]
と見えて居る。唐の玄宗の奸相楊國忠が馬嵬で、禁軍の憤怒を買ひ、遂に軍士の爲に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食された(『新唐書』卷二百六、楊國忠
前へ 次へ
全54ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング