沒凾フ原住種族は、早く支那人間に、山魅又は野人などと稱せられ、人肉を食すと傳へられて居る(『太平寰宇記』卷一百、福州の條參看)。從つてこの記事は支那人の Cannibalism の資料に利用し難いかと思ふ。
十
(四)[#「(四)」は縦中横]憎惡の極、怨敵の肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふ場合。
支那人はその怨敵に對する時、よく欲[#レ]噬[#二]其肉[#一]とか、食[#レ]之不[#レ]厭とか、將た魚[#二]肉之[#一]とかいふ文字を使用するが、こは決して誇張せる形容でなく、率直なる事實である。彼等は生きたる怨敵の肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふは勿論、死んだ怨敵の肉すら※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふことが稀有でない。生者を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]へば之に苦痛を與へ得るが、死者の場合は、屍を鞭打つと同樣の心理に本づくものと想ふ。春秋戰國時代から、この風習の存在したことは、已に述べて置いたから、茲に繰り返さぬ。
漢室を簒奪した王莽が、後に敗死した時の有樣を『漢書』に、
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軍人分[#二]裂{王}莽身[#一]。支[#二]節肌骨[#一]。臠分。爭相殺者數十人。……傳[#二]莽首[#一]詣[#二]更始[#一]。縣[#二]宛市[#一]。百姓共提[#二]撃之[#一]。或切食[#二]其舌[#一](卷九十九、王莽傳下)。
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と載せてある。梁の賊臣侯景、及びその參謀の王偉が、後に失敗して殺戮された時、市民百姓等は競うてその肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した。前者に就いては『南史』卷八十に、
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及[#二]{侯}景死[#一]。{王}僧辯截[#二]其二手[#一]。送[#二]齊文宣[#一]。傳[#二]首江陵[#一]。果以[#二]鹽五斗[#一]置[#二]腹中[#一]。送[#二]於建康[#一]。暴[#二]之于市[#一]。百姓爭取。屠膾羹食。皆盡。并※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽{公}主亦預[#二]食例[#一]。景焚[#レ]骨揚[#レ]灰。曾罹[#二]其禍[#一]者。乃以[#レ]灰和[#レ]酒飮[#レ]之。首至[#二]江陵[#一]。元帝命梟[#二]於市[#一]三日。然後※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−
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