ォて人肉を食した。
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最後に彼等は五人又は六人づつ組を作り、蚤取り眼で餌食を搜がし歩く。單獨なる行人に出會ふと、彼等はこの不幸なる犧牲者を物蔭に引き込みて殺害し、その骨立せる躯體に僅に殘れる肉を、各自に分配した(Visits to High Tartary, Yarkand and Kashgar. p. 48)。
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 これがその後間もなく千八百六十八年に、カシュガル地方を觀光した英人 Shaw の傳へる報道である。咸豐十一年(西暦一八六一)に、長髮賊徒の一根據地たる安慶が陷る頃には、三年に亙つて官軍の攻圍を受けた城中の住民は、人肉を以て、糧食に當て、人肉一斤は銅錢四十文にて市場に賣買されたといふ(Wilson; The Ever−Victorious Army. p. 79)。

         九

 (三)[#「(三)」は縦中横]嗜好品として人肉を食用する場合。
 こは勿論特別の場合に限る。所が支那では、この特別なるべき場合が、存外頻繁に起るから驚く。已に紹介した齊の桓公が、易牙の子を食したのは、異味を賞翫するといふ理由で、この場合の一例と認めねばならぬ。隋の朱粲や五代の趙思綰も亦人肉愛用者の中に加へねばなるまい。朱粲が當初人肉に口を着けたのは、食糧の缺欠に由るが、彼が人肉を第一の美食と公言せる以上、彼は當然人肉愛用者と認めねばならぬ。趙思綰に就いては五代末(?)の無名氏の『玉堂閑話』(『太平廣記』卷二百六十九所引)に、
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趙思綰……凡食[#二]人肝[#一]六十六。無[#レ]非[#二]面剖而膾[#一レ]之。至[#二]食欲[#一レ]盡。猶宛轉叫呼。而戮者人亦一二萬。嗟乎|儻《モシ》非[#下]名將仗[#二]皇威[#一]而勦[#上レ]之。則孰能翦[#二]滅黔黎之※[#「けものへん+契」、187−10]※[#「けものへん+兪」、187−10][#一]。
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と傳へて居る。隨分驚くべき話ではないか。
 唐の張※[#「族/鳥」、第4水準2−94−39]の『朝野僉載』に、薛震が人肉を愛用せし事を記して、
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武后時。杭州臨安尉薛震。好食[#二]人肉[#一]。有[#二]債主及奴[#一]。詣[#二]臨安[#一]。止[#二]於客舍[#一]。飮[#レ]之醉。竝殺[#レ]之
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