ウ[#二]悔意[#一]。惜亦不[#レ]得[#二]其姓名[#一]。
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この記事は、支那人の Cannibalism に關する一材料たるのみならず、同時に支那婦人の貞操觀を知るべき屈竟の一資料と思ふ。昔楚が呉の爲に大敗して、楚の昭王は妹の季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−5]――十四五歳位の少女――を伴ひて逃亡した時、か弱き季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−6]は、從者鍾建といふ者に負はれて、難を避けた。難平いで後、季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−6]の結婚問題が起るや、季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−6]は鍾建に負れて、既に彼此接觸したから、鍾建の外に男子には嫁し難しと主張して、遂に鍾建に降嫁したことがある(『左傳』定公五年條、『資治通鑑』後周紀二參觀)。この季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−8]と、かの失名の少婦との間に、その婦徳自から相通ずる所あると思ふ。
八
(二)[#「(二)」は縦中横]籠城して糧食盡きた時に、人肉を食用する場合。
食人肉の風習を有する支那人は、若し彼等が重圍の中に陷つて、糧食盡くる際には、人肉を以てその不足を補充するのが、古來殆ど一種の慣例となつて居る。さきに引用した『左傳』の宣公十五年の條に、楚が宋を圍んだ時の記事に、「易[#レ]子而食」とあるを始め、同樣若くば、類似の記事が歴代の史料に疊見して居るが、しばらくその中の三四を左に紹介する。
後漢の末に一代の義士臧洪が、袁紹の爲に雍丘に圍まれて食竭きた時、彼はその愛妾を殺して部下の將卒の食に充てた(『後漢書』卷八十八、臧洪傳)。梁の武帝が反臣侯景の爲に建康の臺城に圍まれた時、官軍糧食に乏しく、馬肉に人肉を雜へて飢を凌いた(『南史』卷八十、侯景傳)。唐の安禄山の賊軍が有名な張巡、許遠を※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽に圍んだ時、城中食竭くると、張巡はその愛妾を殺し、許遠はその奴僕を殺して士卒に饗した。『舊唐書』卷百八十七下、張巡傳に、當時の状況を次の如く描いてある。
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攻圍既久(※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽)城中粮盡。易[#レ]子而食。折[#レ]骸而爨。人心危恐。慮[#二]將有[#一レ]變。{張}巡乃
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