゙料と思ふ。
 明の謝肇※[#「さんずい+制」、第3水準1−86−84]の『文海披沙』卷七に、左の如き記事がある。
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我太祖高皇帝時。開平王常遇春妻甚妬。上賜[#二]侍女[#一]。王悦[#二]其手[#一]。妻即斷[#レ]之。王憤且惧。入朝而色不[#レ]懌。上詰再三。王始具對。上大笑曰。此小事耳。再賜何妨。且飮[#レ]酒寛[#レ]懷。密令[#二]校尉數人[#一]至[#二]王第[#一]。誅[#二]其妻[#一]支[#二]解之[#一]。各以[#二]一臠[#一]賜[#二]群臣[#一]。題曰[#二]悍婦之肉[#一]。肉至。王尚在[#レ]座。即以賜[#レ]之。王大驚謝歸。怖※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]累日。此事千古之快。其過[#二]唐太宗[#一]萬萬矣。
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 唐の太宗は、曾て兵部尚書の任環に二宮女を賜ふたが、任環の妻柳氏は妬※[#「女+旱」、174−14]で、二宮女を虐待した。太宗は態※[#二の字点、1−2−22]柳氏を招きて懇諭したが、柳氏は頑として聽入れぬ。一天萬乘の太宗も、已むを得ずして二宮女を別宅に安置させたことが、唐の張※[#「族/鳥」、第4水準2−94−39]の『朝野僉載』に見えて居る。謝肇※[#「さんずい+制」、第3水準1−86−84]は明の太祖と比較すべく、この故事を引用したのである。さるにても天子の尊に居る明の太祖が、公然かかる蠻行を敢てするとは驚くべきでないか。更に一代の達識を以て稱せらるる謝肇※[#「さんずい+制」、第3水準1−86−84]が、この蠻行を稱揚して千古の快事など放言するに至つては、愈※[#二の字点、1−2−22]呆るる外ない。
 明末清初に流賊横行の際に、例によつて、到る處で人肉食用の蠻行が起つた。この事實は、當時の支那人及び外國人の記録に散見して居るが、その代表として、清初の顧山貞の『客※[#「さんずい+眞」、第3水準1−87−1]述』の一節を紹介する。
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{明永明王永暦元年(西暦一六四七)}四川大飢。民相食。有[#二]夫婦父子互食者[#一]。蓋甲申(西暦一六四四)以來。大亂三年。民皆逃竄。無[#二]人耕種[#一]。而宿糧棄廢又盡。故飢荒至[#レ]此。……嘉定州則斗米三十金。成都、重慶。倶五十金。……成都人多逃入[#二]雅州[#一]。採[#二]野菓[#
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